「女給」という響きには、どこか昭和を感じます。
この言葉が生まれたのは、昭和ではなく大正時代のようで、宇野浩二の『苦の世界』(1918‐21)には「いっそのことカフエエの女給にならうかしら」という文章があります。
それが全国区になったのは大正の終わりから。昭和に入り「カフェー」という新しく生まれた風俗産業と共に、「女給」も伝播したのでしょう。カフェーとは、横に「女給」がついてお酒を飲んで語らう場所、つまり今のキャバレーのようなものでした。
女給とくればカフェー。カフェーとくれば女給。彼女らは基本無給、客からのチップだけで生活していました。チップイコール生活費、チップ欲しさにだんだんと過激なサービスをするようになり、次第に陰で売春行為もするようになったと言います。
そして昭和はじめの不景気による先が見えないドンヨリ感もあり、カフェーは「エロ・グロ・ナンセンス」の「エロ」を担う時代の寵児となり、女給は「夜の蝶」と呼ばれ、夜の街をヒラヒラと舞う存在となっていきました。
かつて大阪には、そんな女給さんを載せて走る電車が走っていたことはご存じでしょうか。
とある南海電車の名物電車
そんなお色気ムンムンな電車を走らせていた会社は、みんな大好き南海電鉄。当時は「南海鉄道」でした。
1930年(昭和5)の南海鉄道(現南海本線)の時刻表です。難波から和歌山市までの電車がずらりと並んでいますが、
いちばん下に、深夜2時難波発の電車があります。
列車種別のところに「新聞」と書いていますが、これはもともとは印刷所で刷り終えた翌日の朝刊新聞を載せた荷物電車でした。貨物車ではなく旅客用の電車を使うので、ついでに客も乗せましょうとなりました。今ではトラック輸送が当たり前ですが、道路状況も悪くトラックすらほとんどなかったこの時代は、鉄道が高速で荷物を運ぶ唯一の輸送手段だったのです。南海の天敵、阪和電気鉄道(現JR阪和線)も同じ時間帯に走らせていました。
この辞典によると、新聞電車は関西独特だったとか。輸送手段が鉄道しかなかった時代、そんなことないと思うんだけどなと思うのですがね~。
また、「大阪の郊外電車」ということは、阪急や京阪、大軌(近鉄)なども走らせていたのか、そこあたりは情報募集中です。
その中で、南海の新聞電車は歴史に残るほど一風変わっていました。
大阪のカフェーの中心は、道頓堀などいわゆるミナミ界隈だったのですが、仕事を終えたカフェーの女給さんたちが一斉にこの新聞電車に乗り、帰宅の途についていました。当時の女給さんたちは、萩之茶屋や天下茶屋、岸里周辺に固まって住んでいたそうです。
新聞電車は水商売の女性たちであふれ、化粧や香水のにおいと共に花が咲いたようになり、誰が呼んだか「女給電車」と呼ばれるようになりました。
(昭和11年『開通五十年』-南海鉄道編 より)
実際の「女給電車」の写真ですが、「女のにおい」が写真から立ち込めてくる感がすごい。書いている本人が女子校の前でもじもじする思春期の男子学生の気分です。
「当社は明治時代から『新聞電車』を運転しているが、この電車はいつしか南地歓楽街に夜を更かした酔客や道頓堀千日前に通う幾百千もの若き女性に利用せられ車内は嬌笑と脂粉に渦巻き、(中略)南海の名物電車として知られている」
『開通五十年』
公式社史にも写真付きで書かれているほどだから、よほど「名物」だったのでしょう。
今回は写真も資料も残っている南海電車を取り上げましたが、東京や他の地域にも「女給電車」とは呼ばれなかったものの、女給さん満載の夜遅い電車は存在していたはずです。お暇な方は一度探してみては如何でしょ。
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