阪和線に杉本町という駅があります。これといって強烈な特徴もない駅ですが、この駅にはある副駅名がつけられています。
その名前は、大阪市立大学前。
何をいまさらという当たり前の事実ですが、杉本町駅は大阪市立大学の最寄り駅として知られています。といっても、来年には府立大学と合併し「大阪公立大学」に改名されるので、この名称を公的に耳にするのもあと1年です。
電車と校舎のツーショットが撮れるほど、大学は目の前なのです。
「市大」は今は北九州市立大学や広島市立大学などがありますが、私にとっての市大はここなので、クセでどうしても「市大(いちだい)」と入力してしまいます。訂正するのが面倒くさいので、以下大阪市立大学は「市大」とします。
そんな市大の過去の航空写真を眺めていると、大学の公式史には掲載されていない、ある謎が。
杉本町駅から伸びる謎の線路
まずは、ある航空写真を見てみましょう。
昭和23年(1948)、まだ市大が旧制大阪商科大学だった頃の航空写真です。70年前の写真なので、大学の周囲にほとんど何もない以外は、大学の輪郭を含めて今と変わっていません。
しかし、どこかしらおかしいところもあります。
杉本町駅の横に、線路が見えているのがわかるでしょうか。
ある人はこう思うでしょう。
これって阪和貨物線じゃないの?
私が小さい頃は、ここから貨物列車が毎日走っていました。昭和50年代後半だったと思いますが、大和川を隔てた浅香という駅に何故か1日1本の貨物列車の通過時間が書いていて、駅近くにあった祖母の家に行った時は、その貨物列車を見に行っていました。うろ覚えですが、午後4時前後だった記憶があります。
今はその阪和貨物線も廃止され、レールも剥がされ写真のような長細い荒れ地と化していますが、これではないかと。確かに路線的には似ています。が、阪和貨物線が出来たのは昭和27年。これはその5年前の航空写真です。
これの最大の謎は、線路を辿っていくと大学の構内に伸びていること。これは一体何なのか。
本日の謎は、この一本の線路から始まります。
大学から「キャンプ・サカイ」へ
大阪市立大学のホームである杉本キャンパス、昭和10年(1935)から使用が開始された、旧制大学時代からの歴史がある校舎。それゆえ「ずっとそこにあった」と錯覚しがちです。
が、実はある年代がすっぽり抜けています。それが、昭和20年代。昭和20年代の大阪市大の10年間は、玉音放送の通り「耐え難きを耐え、忍びがたきを忍」ぶ苦難の時代でした。
杉本町の大阪商科大学は戦争中、学生が兵隊や工場に動員されたこともあり、学生数が減少しました。それを理由に、「空いているならよこせ」とキャンパスの一部を海軍に接収され、そのまま終戦を迎えます。
幸い校舎は、空襲の標的にならずほぼ無傷のまま残りました。市内を転々としていた学生たちも、これで大手を振って杉本町に戻れるはずでした。
しかし、無傷だったからこその悲劇が待ち受けていました。
大阪に進駐したアメリカ第6軍第1軍団第98師団は、終戦後すぐに大阪の無傷の建物をリストアップさせ、問答無用で接収を開始しました。
アメリカ進駐軍は紳士的だったとかいう話が「常識」として伝わっていますが、大阪進駐の第6軍はなかなかの暴君ぶりだったようで、こんな通達も出しています。
2.進駐軍の指示には絶対服従ね
3.言うこと聞かないヤツは射殺するね
他の都市はどうか知りませんが、大阪ではこの「法三箇条」が伝わっています。
大阪商大のキャンパスも、軍が使った→じゃあ軍用地につき没収と、終戦間もない昭和20年(1945)10月から駐屯地として接収されてしまいます。
最初は全体の半分で、図書館などは除外だったそうです。が、急に気が変わって敷地オールボッシュートに。
その上、与えられた立ち退き準備期間はわずが1週間。そんなもん出来るか!と言えば
ならYouは射殺するね
な雰囲気に文句も言えず、黙々と立ち退きに従いました。教員や職員の回想によると、米軍のあまりに理不尽な要求と傲慢不遜な態度に、
戦争に負けるとはこういうことなのか…
と、「敗戦」という現実を噛みしめたといいます。
特に図書館の移転は。戦争が終わったのに「戦争」そのものでした。30万冊もある図書館を数日(24時間だったという証言もあり)で空っぽにしろという無茶振りに、大学関係者だけでは到底人手が足りず、米兵も動員してなんとかやり遂げたそうです。
が、本の価値がわからない米兵が粗雑に扱って破損したり、金になりそうな本を盗んだり、こんな本イラネと途中でトラックから放り投げたりして散逸した書籍・資料の数は現在もわかっていません。だいいち、図書館の本がすべて搬出できたのかどうかの暇さえ、米軍は与えませんでした。その十数年後、移転のどさくさに行方不明になった自分の所蔵本が古本屋に売られ、びっくり仰天したという教授もいたそうです。
接収された商大キャンパスは、「CAMP SAKAI(キャンプ・サカイ)」と呼ばれていました。
しかし、この名前にすごく違和感があります。大和川の向こう側出身から言わせてもらうと、川の向こうの杉本町(大阪市内)にあるのに「サカイ」とは…そこ堺とちゃうやろという違和感を覚えます。
東京の原宿は渋谷区である。よって原宿を渋谷と呼んでも何ら間違いではない(ドヤ
と理屈を放たれても、それなんかちゃうやろ…と感じるようなものです。
実は、大和川を隔てた堺市側にも米軍の駐屯地がありました。
その名は「キャンプ・カナオカ」。こちらは元陸軍騎兵・輜重兵連隊があった場所でした。最初、「キャンプ・サカイ」は堺の方かと思っていましたが…地元民としては、アメリカさんよ、やっぱりネーミング間違ってね?という違和感だけが残ります。
流浪する市大
アメリカ軍に大学まるごと接収されてしまった商大は、どうなったのか。
家を追い出されてしまった大学は、市内各地の学校を間借りする居候生活を余儀なくされます。実は大阪商大から新制大阪市立大学に移行する時も、杉本町ではなく、「亡命中」に、「亡命先」校舎で引き継ぎが行われました。
その時、現在の理学部・工学部・生活科学部・医学部の母体の学校を合併し、法文・経済・商・理工・家政学部で新制市立大学がスタートします。
明治40年(1907)創立の市立工業学校(のち市立都島高等工業学校)
■生活科学部:
大正10年(1921)創立の市立西華女学校(市立女子専門学校)
これで現在の市大への土台が作られ、戦前からの念願だった総合大学へ・・・と聞こえは良いものの、如何せん実家が進駐軍にボッシュートされている状態。
仕方ないので各学部とも元の学校の校舎で開講となる、いわゆる「タコ足大学」となりました。
:心斎橋の旧道仁小学校→旧靭(うつぼ)商業学校
旧商大・予科・高商科と図書館
:西区の旧靭(うつぼ)商業学校(新制市立大学後は廃止)
理工学部
:北野国民学校(現北税務署)
家政学部
:西長堀の旧西華女学校(現西区民センター)
医学部
:扇町
字で書くとピンとこないので、地図に落とし込んでみました。
こうして見ると、いかにバラバラになっていたかがわかります。
これがどれだけ不便かというと、例えば理工学部の人が何かの理由で大学のハンコをもらわないといけない時、わざわざ靭公園近くまで行かないといけない。図書館で本を借りようと思えば、わざわざ靭公園まで行く必要がある。
電車代だけでもバカになりませんが、その図書館もこんな状態に。
今のように、FAXでピピピと、メールでPDFをホイと送れる時代ならどうということはないですが、この時代なら学生の苦労も甚だしいものに。
もう無茶苦茶でござりますがな(by花菱アチャコ)
その「亡命先」の一つ、市内中心部の「靱(うつぼ)」校舎の一部ですが、敷地に民家が食い込んでいる状態で運動もロクにできませんでした。
無理矢理やろうとしても、ボールがしょっちゅう民家や学長室のガラスを突き破り、お茶を飲んでいた学長の頭に当たるという、二流ギャグ漫画のような展開が何度もあったそうです。
文系各部はまだよかったものの、理系学部の実習は小学生でも50人がやっとの教室に、大学生100人以上が詰め込まれる、人口密度どんなけやねんという状態でした。
当時の様子はこう記されています。
「教室も学童の1クラス50名程度の広さのものばかりで、受講者の数に対応できる体勢がなく、大学の教育施設としては大きな欠陥を持っていた。
スポーツ・更正施設も皆無に等しく、体育の授業は家政学部の運動場を利用するため、各所から出なければいけない始末であった。他大学が新制大学としてスタートしてから着々と整備されていくのに、大阪市立大学はその本拠を奪われ、借り物の小学校では恒久的な施設の建設は全く不可能であった。
『大阪市立大学百年史 全学編』
このため、せっかく全国から集められた優秀な研究者たちも、研究は古巣の阪大や京大なりで行って講義にだけ(市大に)出かけてくる人も多く、理工学部などではあまりの悪条件のために流出していったケースも少なくなかった」
学生以前に先生が、
こんな大学で仕事なんてイヤだ〜!
と逃げ出してしまうほどの劣悪な環境だったのです。
戦後すぐのこの時代が、大阪市立大学最大の苦難の時代でした。「住所不定時代」と言ってもいいでしょう。
当然、ボッシュート中の杉本町キャンパスを返せと、返還運動が起こるのは自然の流れ。教員や学生が市と掛け合い、国やGHQと交渉しますが、答えはノーでした。
それでも昭和27年(1952)に、粘り強い交渉の結果、今の1号館がある敷地の、1号館・図書館・研究棟だけが返還されます。GHQが「急に気が変わって」接収されてしまった場所です。
大学が全面返還されるまでにはさらに数年かかり、全面返還されるのは昭和30年のことでした。
それまでは、大学と基地が同じ敷地内にあるという珍現象が起こっていました。米軍の基地の中に大学があったと言った方が正しい描写かもしれません。米兵と学生の距離が近すぎてトラブルも続発し、女子学生が護身用と、貞操を奪われた時の自決用にナイフをバッグに忍ばせていたというエピソードもあります。
この流浪時代に大学を卒業したOBは、「大阪商大」「大阪市立大学」卒なのに杉本キャンパスと全く縁がありませんでした。市大の顔である杉本キャンパスを見ても自分の大学だという愛着がなく、同窓会に出席しても杉本町経験者と何か壁がある「ロスト市大世代」だと述べています。
コメント
私がのぶさんのブログを読むきっかけになった記事をリライトいただいてありがとうございます。
改めて私が持っている資料を見返したのですが、やはり引き込み線を確認することはできなかったので、今回は台風の被害を被ったものとはいえ線路の写真を確認できて感動しました。
進駐軍から返還された1号館等は「まなびや」から大分改修されていたようで、当時の職員も克明に記録していました。
ちなみに、本館地区入って右手にある「旧車庫」は、当時から残る貴重な建物ですので、機会があればご覧になってください。
ときどき読ませてもらってます。
我孫子前にある某高校の校史で、アメリカ兵が遊び(視察?)にやってきた写真がありました。キャンプのご近所だからでしょうね。その縁でアメフト部ができた、とかいうような記述があったかも。そのかわり、校内にあった神社も撤去させられたんですが。
進駐軍専用線ですが、昭和32年発行の地図によると、杉本町駅側からではなく我孫子大橋近くで阪和貨物線から分岐するようになっていたようです。10年後の昭和42年の地図には描かれていないので、この間に廃止されたのだと思います。
検索からこの記事で見つけました。
以前から古い航空写真にある市大の線路らしきものの真実を知りたく思っておりました。
GHQの引き込み線ではと想定はしておりましたが、このブログのおかけで確信を得られただけでなく、多くの知らなかった情報を得ることができました。空中写真以外の写真や、引き込み線とは関係ないものの市大構内の遺構まで知ることができるとは。
読んでいてワクワクしました。本当にありがとうございます。
大阪市大卒業生です。私が学生の頃(今から30年前)は、キャンプサカイ時代のチャペルがありました。毛色の違う木造建築で、確か私が学生当時は保健管理センターだかそんなものだった記憶があります(新入生の時、一度だけ健康診断で行きました)まだ、当時は古い建物も残っていたので、もっとしっかり見ておくべきだったと、このブログを読み後悔しております。まあ、当時は大学生活が楽しくて、それどころではありませんでしたが(笑)そして、杉本町の狭いホーム!私が学生の頃はまだ柵もなかったので、快速が通るときは確かに怖かったですね。
ありがとうございます。