大塩平八郎の乱と飛田墓
大塩平八郎の乱。学校の日本史の授業でも、必ず習うといって良い日本史のターニングポイントの事件です。大阪の与力だった大塩平八郎が庶民の困窮をうれいて幕府に対し謀反を…というぼんやりとした概要は知っているでしょう。
が、大塩本人の顛末はどうだったのか…そこまで知っている人はかなり少なくなります。
実は大塩、乱が失敗した後、40日ほど各地を逃亡、最後は隠れ家を追っ手に囲まれ、もはやこれまでと持っていた火薬に火を放って壮絶な爆死。まるで某戦国時代の武将のような最期でした。
その屍は当然バラバラになったものの、執念の縫合により乱に参加した同志とともに磔になったそうです。
九州は松浦藩の藩主、松浦静山が大塩平八郎の乱に興味を持ち、早馬で仕入れた情報をもとにして作った「甲子夜話」という詳細な記録があります。上の写真はその中に書かれた、鳶田での大塩平八郎以下の磔の図で、赤丸が大塩です。
ここで私のアンテナが反応しました。
「鳶田?」
鳶田は飛田のこと、今のJR新今宮駅の南側周辺に墓場があったという話は以前から小耳にははさんでいましたが、まさかこんなところで出てくるとは。
飛田にあった墓地
気になって早速調査してみると、江戸時代の地図にこんな記述を発見しました。
【増脩改正摂州大阪地図 文化3(1803)年】
住吉(紀州)街道の道外れに「鳶田墓」と記述されているところがあり、その横に「刑場」と書かれています。その上には、処刑場の執行・管理人である非人村の文字も見えます。飛田に処刑場があったことはこれで間違いありません。
墓はおそらく、処刑された罪人の墓だったのでしょう。
大阪には、有名な千日前をはじめいくつか刑場があったのですが、鳶田の方は大塩平八郎のような磔か、主に火付け(放火犯)が服する火あぶりの刑用の刑場でした。
(出典:『第五回内国勧業博覧会』国会図書館デジタルコレクション所蔵)
明治36年(1903)、大阪の地に「第五回内国勧業博覧会」が行われました。天王寺周辺が会場となり、会場跡は現在、新世界・天王寺公園などに変わっていますが、その時の地図には鳶田の墓は跡形もなくなり更地と化していました。
記録によると、江戸時代の刑場の墓・火葬場はすべて郊外の阿倍野墓地に集約されたとあるので、鳶田の墓もこの頃には阿倍野にまとめられたのでしょう。
が、1914年発行の『大阪市内詳細図』には、鳶田墓があったとされる部分に墓地の記号があらわれています。この時期にはまだ「片鱗」があったのでしょうか。
この明治後期、鳶田墓の西、住吉街道沿いにあらわれたものが木賃宿。木賃宿とは日割りの宿のことで、大阪では宿をさかさに読んだ「ドヤ」として知られています。そう、この頃成立したと言われているのが、「釜ヶ崎」です。
詳しくはまだ追って書きますが、ここあたりに人が集まり始めたのが1899年に電光社というマッチ製造業者が工場と社宅を作ったのが始まりです。社宅は社員以外も居住可能だったこともあり、工場を中心とした一集落が出来上がりました。
そこから日露戦争の戦争景気で周辺に労働者が集まったのが、現在まで続く、地域としての釜ヶ崎の始まりとされています。
大正時代、昭和の地図を見てみると墓のあった場所はすっかり整地され、釜ヶ崎の貧民街の巣窟になっていりました。そして、ここに墓があったことは完全に忘れ去られましたとさ…。
飛田墓の位置は
JR新今宮駅東口を降り、南へ向かってすぐにある太子交差点。そのすぐ南側に、200年前は墓場と処刑場があるだけの荒れ地だとは、現在の光景を見ると到底信じられません。
その墓がどこにあったのか、現在の光景では想像すらできません。が、幸いにも江戸時代から変わっていない目印が一つあります。
それが、紀州街道。ここの道筋はほとんど変わっていないため、ここを基準にした当時の鳶田墓の位置は!
古地図とgoogle mapを見比べて作成したざっくり予想図です。赤で塗った部分が、明治時代になって縮小された敷地で、江戸時代はもっと広かったそうです。
ここあたりは、紀州街道が残っているとはいえ、特に阪堺線から西は戦争の空襲で焼け野原になり、その後道筋も含めて整理されてしまったので確定が難しかったですが、幸い大正時代~昭和初期までは、江戸時代の地図に書いてた、墓を囲むようにクニャって曲がった道(川?)が残っていたので、それも参考にしました。
そこの南東隣に、大塩平八郎も処刑された刑場があったようです。
飛田墓跡に遊郭が?俗説をぶっ飛ばせ!
「飛田遊廓は鳶田墓&刑場の跡に作られた!」
こんな俗説をネットで散見します。
しかし、上の古地図と比べると一目瞭然。ギリギリではあるものの、飛田新地と鳶田の刑場は何の関係もないことが、ここまでの流れでわかります。
それ以前に、飛田新地あたりの旧地名は堺田、「飛田」は飛田遊廓が出来てからの俗地名(公式には認められていない地名)。もし遊廓の名前が地名に忠実に名付けられるなら、飛田ではなく「堺田遊廓」になっているはずだし、なっていないといけません。
正式な、というかそもそもの鳶田(飛田)という地名は、紀州街道が大阪環状線新今宮駅を跨ぐ「ガード下」及び南側周辺でした。
そんな飛田新地にはさらなる謎があります。
それは、「何故か北西の角だけ取れている」こと。
飛田遊廓は四方をぐるりとコンクリートの壁で囲まれていたのですが、北西の壁の部分だけ何故か不自然になっています。それも何か意図的に。遊廓が出来る前、ここはは人家もない荒地か畑なことは資料で確認済みなので、建物があったからということは、まずあり得ない。
だいいち、当時は廃娼運動のピーク、角を削る必要がある建物密集地に遊廓なんか作ったら、とんでもないことになっています。
この「北西壁の謎」、10年ほど気になっているのですが、今回ある仮説を思い浮かべました。
「もしかして魔除け?」
今回の調査で、飛田新地のちょうど西北、つまり角が取れている方向に墓と刑場があったことがわかったので、それに対しての魔除けかな?
発見してから10年、わからないなりにこう推理してみたのですが、読者のみなさんはどう推理するでしょうか。
鳶田の墓があった周辺をくまなく探してみました。
現在の「鳶田」にあるのは墓標ではなく、現代の木賃宿と鉄筋コンクリートの森林。聞こえるのは車のエンジンと阪堺線のチンチン電車が走る音。そして、鼻につく釜ヶ崎独特の、あの「小便と汗と安物の洗剤が混ざり合った、何とも言えない」においと、日本酒ともビールともつかぬアルコールのにおいだけ。
予習にググってみると、つい最近まで片隅に「太子地蔵尊」というお地蔵さんがあり、ここに墓場があったことを語る唯一の遺構だったそうです。しかしそれも今はなく、ここの露に消えた名も知れぬ人たちの無念は、今は都会の喧騒と共に完全に消え去ってしまいました。
まあ、それも数万年、数十万年という歴史の大河で演じられた劇の、ほんの一幕に過ぎません。
鳶田の露の亡霊は
歴史の土に埋もれたり
大塩無念の刑場の
ビルがかれらの墓標かな
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