阪堺線宮ノ下駅(停留場)の怪-ある廃駅の謎を解く

阪堺宮ノ下駅鉄道史

大阪の「西成」と聞くと、身体ごとひるんでしまう人が多いですが、西成といってもけっこう広い。非地元民が漠然とイメージする「西成」とは、いわゆる「あいりん地区」のことで、ほとんどの(?)西成は良い意味での下町です。他地域よりは多少濃いかもしれませんが、それは人の個性程度の違いです。

そんな静かな西成に、南海の岸里玉出という駅があります。元は「岸ノ里」「玉出」駅がヒュージョンして生まれた駅ですが、高野線の駅のガード下を「チンチン電車」こと阪堺線が走っていますが、それらが立体交差するあたりに、ホームらしき跡があります。

阪堺宮ノ下駅跡

ググってみると、そこにはかつて「宮ノ下」という停留所があったとのことでした。

スポンサーリンク

宮ノ下駅とその歴史

戦前の阪堺宮ノ下停留所

宮ノ下電停(以下「駅」とします)は、現在の天神ノ森と東玉出駅の間にあった廃駅で、明治44年(1911)に開業しました。上記の戦前の地図でも、その存在が確認できます。

大阪阿部野神社

駅から少し視野を広げると、南北朝時代に南朝側についた武士、北畠氏祀る阿部野神社があります。古くからあるのかなと思ったら、建立は明治と新しい。

1926大正大阪風土記

大正15年(1926)刊の『大正大阪風土記』にも記載があり、最寄り駅は宮ノ下になっています。ちなみに、宮ノ下駅の開設当初の名前は「阿部野神社」で、のちに改名されますが宮ノ下の「宮」は阿部野神社を指します

そんな宮ノ下駅に、悪い意味での転機が訪れたのが1940年代の対米戦争から。
元々、天神ノ森-宮ノ下-東玉出(当時は勝間)の駅間距離が非常に短く、いくらチンチン電車と言えども短すぎ!と要らない子(不要不急駅)扱いされ、休止に…。

というのが、一般的な宮ノ下駅の歴史とされています。

が、それを裏付ける一次資料がどこにも存在していません。「そう言われているからそうなんじゃない?」扱いされているのが現状です。
大阪のニッチな歴史をテーマにしている雑誌『大阪春秋』には阪堺線特集号がありますが、そこでも宮ノ下駅は「1944年休止?」と断言を避けています。『大阪春秋』くらいの権威を持つ雑誌になると南海や阪堺に直接聞いているはずですが、それでもわからないということでしょうか…。

しかし、これがかえって調べ魔の私を燃え上がらせることになりました。よーし、『大阪春秋』でもわからなかったこの謎、尻尾くらいはつかんでやろうじゃないかと。

宮ノ下駅は戦後も営業していた!?

全然別の案件で南海電鉄の一次資料をまさぐっていたところ、ふと阪堺線の路線図が目に入りました。そうそう阪堺線は昔「南海」やったんやわ~と思い出半分で見てみると、そこには衝撃的なものが。

南海軌道線図『南海70年のあゆみ』

昭和31年(1956)の資料ですが、そこにははっきりと「宮ノ下」の文字が!おまけに浜寺駅前の手前にあったという「海道畑」と、ほとんどノーマークな上町線の廃停留所「中道」も掲載されています。なお、『大阪春秋』によると中道は「1967年廃止?」としています。

しかし、休止中の駅も表記されているのではないか?という疑問が浮かびます。

堺宿院阪堺大浜支線

かつて阪堺線には、堺の宿院から大浜公園に延びる支線がありました。上の写真の左側に伸びる線路がそれで、電車は浜寺行きのもの。

こちらは正真正銘、堺空襲で焼けてしまいます。戦後に再開されるものの、その傷がもとで昭和24年(1949)休止、線路も早々に撤去され30年以上放置プレイの挙句、昭和55年(1980)にようやく廃線となりました。

その大浜支線が、上の路線図には掲載されていません。同じ「休止中」なのに方や掲載され、こなた掲載されず。おかしくないですか?しかもこれ、言い逃れ不可能な南海電鉄の公式資料です。

これでピンときました。

筆者
筆者

もしかして、宮ノ下駅は戦後も営業していた!?

この仮説をベースに、私の「宮ノ下駅の謎解き」が始まりました。

まずは、南海の公式歴史書『南海百年史』『南海70年のあゆみ』、阪堺の『阪堺百年』に掲載されている年表から、宮ノ下駅の記載を目を皿のようにして探しました。
南海天王寺支線の「大門通」「曳船」は○月X日廃駅と記載されているのに、宮ノ下は休止も廃止も何も書いておらず。つまり、定説の「1944年休止」ですらあやふやなのです。だからこそ『大阪春秋』は「?」をつけたのでしょうね。歴史に対する真摯な態度で好感が持てます。

お次は地図から存在を証明。

昭和30年(1955)の「大阪西南部」2万5千分の1の地図を見てみると。

宮ノ下駅昭和30年地図

宮ノ下駅の記載があるじゃないですか!

鬼の首を取ったような私でしたが、でも、あるはずの東玉出駅の記載がないですよね?というTwitterフォロワーさんからのツッコミが入り、信憑性は非常にビミョーなものになりました(笑

さらに地図を掘り起こしていきます。

宮ノ下駅地図(大阪市全住宅案内図帳)

全国の図書館の蔵書検索で調べ、やっと見つけた昭和30年代前半(35年なら府立図書館にある)の大阪市の住宅地図…そこには「みやの下」の文字が!
昭和35年の住宅地図には記載されていないことは、私が目視で確認済みです。

それでも「とどめ」が足りない…そんな中あることを思い出しました。

筆者
筆者

以前のツイートで、祖父が南海(阪堺)の中の人という方が、昔々の阪堺の内部資料を見せてくだたな…

そのツイート自体がいつのものだったか、当の本人が忘れてしまっている以上、自分のツイートアーカイブをたぐり寄せるしかない。探すこと数日、そのリプを発見。早速DMして資料を見せていただきました。

1951-52頃阪堺線内部資料1

1951-52頃阪堺線内部資料2
(提供:Twitterのフォロワー様より)

はい、宮ノ下駅ありました。昭和26~7年頃と推定される戦後の阪堺の技術資料ですが(戦後の昭和20年代であることは確か)、これも「ただの休止中じゃないの?」という疑問は、大浜支線は不掲載という答えで解決です。

南海公式資料・地図・そして内部資料という一次資料トライアングルを分析し、ある結論を立てました。

・宮ノ下駅は戦後も営業していた

・戦争中に休止したものの、戦後に復活
(1944年休止(?)はまんざら間違いではないと思われ、証拠ないけど)

・昭和31~35年の間に休止
(『西成区史』(1965刊)には「現在休止中」との記載あり)

・阪堺が南海と分離した昭和55年に、大浜支線や平野線と一緒に「廃駅」
(だから「南海」の年表に載っていない。でも阪堺の年表にも載っていないけど、こう考えるのがいちばん筋が通っている)

・いや、実はまだ休止中?
(船尾~浜寺駅前の「番号飛び」が気になるけど、宮ノ下は飛んでないからそれはないか?)

決定的な証拠は出なかったものの、「宮ノ下駅は戦後も生きていた」という仮説を裏付けるには十分かと思っています。あとは、「1944年休止」或いは「廃駅」の公式資料がどこから出るかですね。

NEXT⇒宮ノ下駅のさらなる謎が発生!
スポンサーリンク

コメント

  1. のり より:

    大作、拝読させていただきました。
    綿密な調査をされたようで感激しています。
    阿倍野神社が大切にされたのは、皇国史観により南朝を支えた重臣を祀るじんじゃが崇敬され、北畠親房・顕家父子を祀るこの阿倍野神社も(楠木正成公を祀る湊川神社と同様「別格官幣社」に列せられました)その影響が大きかったと思われます。
    「宮ノ下」については阪堺サイドにも資料がほとんど残っていないようで、廃駅になった年代も経緯もほぼ不明のようです。昭和30年頃までの都市地図にも停留所名が記載されているものも見受けられます。
    ただ、昭和26年に発表された映画「めし」に天神ノ森で電車を待つシーンが出てきますが、そこに見える駅名標「かなり読みづらいのですが…)には、隣接駅の字数が多いように見てとれますので、「みやのした」ではなく「ひがしたまで」となっているようですので、このころにはすでに廃駅となっていた可能性があります。
    また宮ノ下の渡り線についてですが、今から50年ほど前までは、天下茶屋天満宮の夏季祭礼の際に恵美須町・天神ノ森間を折り返す臨時便が出ていたそうで、その折返便に使用されていたと思われます。臨時といっても30分に一本程度のかなり緩い臨時だったと聞きました。ここの渡り線は保線用の引込み線絡みだったとも思われますので、その臨時便はここまで足を伸ばしてこの渡りを使用して折り返していったものでしょう。
    もっと古く戦前には宮ノ下止まりの電車もあったのかもしれませんが、ある写真集に阪堺の古い方向幕の写真が出ており、そこには「宮ノ下」という表示はなかったと記憶しています。
    いずれにしましても謎の多い電停ですが、阪堺電車自体古いものに関しての謎が多い電車ですので、それがまた魅力なのかもしれません。

  2. のり より:

    迂闊でした。
    申し訳ありません。
    確認しましたところ、戦前の幕に「宮ノ下」がありますね。
    コメント、お詫びして訂正させていただきます。
    戦前は南朝の重臣たちをお祀りした神社をことさらに崇敬したようですので、阿倍野神社も相当大切にされ、その祭礼も臨時を出すほど賑わったのかもしれませんね。

    • 米澤光司 より:

      >のりさん

      ご訪問いただきありがとうございます(^^)
      さらに詳細な情報もありがとうございます。
      宮ノ下駅の幕は、まさにTwitter知といったところで、時折「実は…」とフォロワーさんがこっそり情報をくれたりします。
      今回のはまさにホームランでした。
      あとは、休止にしても廃止にしてもお役所に出した公文書が残っているはずなんですけどね~。本文のとおり、私は南海と阪堺が分離した時にまとめて廃駅にしたと見ていますが、証拠がないんで…。私はお次のミッション、「海道畑」へと進むことにします。
      また何か情報がありましたら、宜しくお願い致します。

  3. のり より:

    先日大阪市立中央図書館にて、上町線の運行について調べるため「南海鉄道発達史」を閲覧しておりますと、とても興味のある記述(311〜313ページ)が出てきました。
    それによりますと、大正時代からこの本が発刊された昭和13年現在、朝ラッシュ時(7〜9時)に恵美須町・宮ノ下間を約7分間隔(当初は5分間隔)で折返電車を運行していたことが明記されています。
    また、堺市内区間も高須神社と大浜海岸・御陵前間で、当初は4月〜11月で20分間隔でしたが、昭和13年当時はほぼ終日6分間隔で運行されていたようです。
    昭和13年当時、阪堺線は最大3分間隔運転という今ではとても信じられない状況だったようです。

  4. 月夜眠 より:

    宮ノ下駅は私の実家のすぐ近くで、子供時代に阿倍野神社へ遊びに行った際によく行きました、廃駅の上歩いたり、引き込み線の中入ったり。運転士の人は何故か警笛一つ鳴らしませんでした。

    阪堺には今は有りませんが、謎の引き込み線がもう一つありました、恵美須町駅と霞町(今の新今宮駅前停留場)の間の西側にかなり長い引き込み線がありました。今から50年近く前でしたがその頃からもう使われていませんでした。
    当時恵美須町の平野線のホームに一両分の引き込み線がありましたが、これはひょっとして阪堺本線の引き込み線だったのか、それともあたりに当時倉庫がたくさんあったので貨物線だったのか、今でも不明です。こりについて書かれた文章はネットで探しても見つかりませんでした。

    • 米澤光司 より:

      >月夜さん
      こんばんは。拙ブログにコメントありがとうございます。

      >謎の引き込み線がもう一つありました、恵美須町駅と霞町(今の新今宮駅前停留場)の間の西側にかなり長い引き込み線がありました

      これはかつてその西側に車庫がありました。大正時代に現在のあびこ道の車庫にメインが移りましたが、車庫自体は戦後も残っていたようです。
      車庫自体はたぶん昭和30年代にはなくなったと思いますが、その残滓が「長い引込線」で、昭和60年くらいまで残ってたようです。

error:Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました