大阪府貝塚市にかつて存在した遊郭「近木新地」は、現在も街の中にその面影を残しています。
一見すると住宅地や商業地の一角ですが、区画や建物の一部にはかつての遊郭・赤線としての名残を感じることができます。
本記事では、貝塚遊郭(近木新地)の現在の様子やその姿について、場所や行き方、街並みの特徴とあわせてわかりやすく解説します。
あわせて、現在も残る赤線独特のカフェー建築や料亭など、具体的な見どころも紹介します。
👉貝塚遊郭の歴史については、こちらをどうぞ
貝塚遊郭(近木新地)の場所、行き方
貝塚遊郭への行き方は、以下の通りです。
住所は「大阪府貝塚市近木」となります。

貝塚遊郭は南海本線貝塚駅から2分ほど歩いたところにあり、その利便さから「駅前遊郭」と筆者は造語で表現しています。

貝塚駅前の区域は道筋が古いままで、悪く言えばごちゃごちゃしています。
が、その中で都市計画に基づいた人口都市のようなエリアがあります。
貝塚遊郭に限らず、遊郭は「新地」と呼ばれた新開地が多いので、明らかに周囲と区画的に浮いている…という場所が多いのです。
貝塚遊郭跡訪問の注意
上述のとおり、貝塚駅前周辺は道筋が古いままでかなりごちゃごちゃしています。
しかも道幅が狭く、車での来訪はおすすめしません。
せっかく駅から近いので、電車での訪問をおすすめします。

大阪市からなら、南海本線の急行に乗れば一本で行けます。
現在の遊郭跡の街並みと区画

赤線がなくなった貝塚遊郭の現在を歩いてみましょう。
赤線の灯が消えて62年目、令和2年(2020)の貝塚遊郭跡のメインストリート、「本通り」です。遊郭跡によくあることですが、周囲の道に比べて明らかに広い一本の道がまっすぐ走っている…それが遊郭の中心を走った旧大通り。

ここが現役だった頃、両側には和風洋風の建物が建ち並び、夜には嬌声がBGMとして賑わいの雰囲気を醸し出していたのでしょう。

再開発から逃れた故の結果ですが、逆に言えば貝塚の衰退の象徴とも言えなくもないし、貝塚の60年以上前の殷賑さの面影とも言えます。
遊郭の跡は、前ばかり見ていても見つかりません。
上を見て電柱を見てみましょう。そこには「新地」の文字が。

電柱には旧町名が遺跡の土器のように残っていることがあります。今回の「新地」もそう。新地がすべて遊郭ではないのですが、遊郭跡の電柱には「新地(またはシンチ)」の文字が残っていることが多いのです。
菱形の窓が印象的なカフェー建築。こちらも以前は赤線の店だったのでしょう。

地味でうっかり見落としそうになりますが、窓の格子に特徴がある建物です。


こちらも「まっすぐ見てるだけ」では見つからなかった建物。2階部分のアクセントが赤線だなーと思わせます。

一見するとただの家ですが、角に二つ玄関があるのが大きな特徴。
「ふつうの民家」ならこんな玄関の作り方する必要ないですもんね。
貝塚遊郭跡とカフェー建築
カフェー建築とは
貝塚遊郭跡の特徴の一つに、カフェー建築の多さがあります。
カフェー建築とは戦後の赤線(特殊飲食店街)によく見られる特徴的な建築の一つです。
東京都の遊郭は、公娼廃止後は特殊飲食店(カフェー)という名目で赤線地帯となりましたが、その際に東京都からある指導があったようです。

外観で一発で「特殊飲食店」だとわかるようにしろ!
営業スタイルは「カフェー」なので、それに合わせた外観を繕い、結果的に
・派手な色のタイル張りの外壁
・アーチ窓(曲線を多用)
・昭和初期スタイルの丸窓
・なぜか玄関が2〜3つある
など、一度見たら忘れられないような独特の姿となりました。
これが、いちおうカフェー建築と呼ばれる建物の定義です。
実際のカフェー建築の例
百聞は一見にしかず。、筆者が撮影したカフェー建築の例を少し紹介します。

小説や演劇の舞台にもなった東京の有名な赤線、鳩の街にあったカフェー建築です。
茶色と落ち着いた色合いですが、赤線というフィルターがつくとどこか色っぽい。

こちらは洲崎遊郭跡に残っていたカフェー建築。
洲崎は海沿いのベイサイド遊郭(赤線)だったせいか、青や水色のタイルを使ったカフェー建築が多かったです。
こちらは、建物自体は現存するものの、大幅リフォームされてこの姿では現存していません。

上のカフェー建築は残念ながら現存せずですが、こちら東京玉の井のは5〜6年前に存在していたもの。
おそらく、今でもあるでしょう。典型的、かつ現在では残り少なくなったカフェー建築なので、見に行くなら今のうち。
東京のばかり紹介してしまいましたが、カフェー建築はその後地方へと波及し、地方の遊郭・赤線跡へ行けばまだ見ることができます。
これを基本知識に、貝塚遊郭跡に残るカフェー建築を見ていきましょう。
貝塚遊郭に見るカフェー建築


ピンクと黒のタイルの使い方の艶めかしさが、THEカフェー建築。

建物の上に残る外灯の跡が残ります。
お前の血は何色だぁ〜!は北斗の拳の名セリフですが、赤線時代の外灯は何色だったのでしょうか。

リフォームされているものの、往年のカフェー建築の形を残しています。

こちらの元カフェー建築のお店は、月1日だけ開放されていたことがあり、その時に中身を見学させてもらいました。
内部が気になるでしょ?
そう言うかと思って、その時の様子をまとめています。
👉カフェー建築の中は一体どうなっているのか!?気になる方はこちら
結論だけ申し上げると、カフェーという洋風の姿はあくまで外観だけ。玄関以外の中は「純」をつけて良いほどの和風、つまり遊郭の妓楼そのままだったと。
料亭深川
貝塚遊郭跡には、元妓楼を再利用した料亭がかつて残っていました。
料亭「深川」です。
残念ながら閉店してしまい、現在は門を閉ざしたまま放置プレイとなっていますが、10数年前にここで「一生体験しないような豪華なランチ」を堪能したことがあります。


ここは空襲で焼けたはずなので建築は戦後のはずですが、さすがは料亭と贅を極めた内部と料理の数々は今でも記憶に残っています。
昭和30年(1955)の赤線業者リストには、料亭と同じ屋号の「深川」として登録があるので、貝塚の赤線の中でもかなり高級見世として栄えたのでしょう。
「拝観料約1諭吉」とお金はかかりましたが、こうして閉店すると内部をカメラに収めておいてよかったと感じ入ります。
👉その時の「深川」のレポートはこちらをどうぞ
歴史とあわせて見ることで深まる理解
なぜ貝塚なんかに遊郭ができたのか。それは歴史をたどっていくと理解ができます。
箇条書きすると以下のとおり。
- 江戸時代からの宿場町だった
- 隣の岸和田が、江戸時代からの色街禁制の町だった(花街はあった)
- 泉州タオルなど紡績業で財をなした人が多かった
- 水間観音の穢れ落とし?(筆者の推測)
歴史から見ると、「あるべくしてあった」と言わざるを得ない。それほど条件が揃っていたのです。
👉貝塚遊郭の歴史については、以下の記事に記しています
まとめ
私が貝塚遊郭(近木新地)の存在を知り、初めて訪れたのは2006年になります。
最初に訪れた遊郭・赤線跡は京都の中書島と橋本でした。
が、2番目の貝塚(と堺)は地元史との絡みもあり面白さに気づくこととなり、遊郭・赤線史家としての私は貝塚から始まったと言っても過言ではありません。

歴史や空襲などもあわせて現在を歩くことで、貝塚、近木新地という場所をより立体的に理解できるでしょう。
それから14年、何度かここを訪ねましたが風景は全く変わっていません。ここ界隈だけ時間が止まっているかの如く、何一つ変わっていない。
それが良いことなのか、悪いことなのか。それは私が判断することではありません。が、赤線カフェー跡がふつうのカフェになったり、どうにか活用しようという動きはなきにしもあらず。60年も経てば建物も歴史の一部、遊郭も赤線も歴史の一部だからそこをテーマにしたものを作れないだろうかと、個人の一感想として感じます。
新しいビルを建てるばかりが再開発ではない、古いものを、それも地域史的には「負の遺産」を正にもっていく、それも再開発ではなかろうか。貝塚の古いカフェー建築は、私にそう教えてくれている気がします。
👉貝塚遊郭関連ブログ 歴史編
👉貝塚貝塚ブログ 現代編
参考記事
大阪府の他遊郭記事リンク集
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関西・近畿地方の遊郭記事リンク集
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