多磨霊園に眠るもう一つの「井上家」の墓

東京郊外の多磨にある多磨霊園。東京ドーム27個分の敷地には何百何千ものお墓があり、毎日人の流れが絶えることがありません。
多磨霊園には「最後の海軍大将」こと井上成美提督の墓があります。

個人ではなく「井上家」の一人として納められていますが、近くにはもう一つ、「井上家」の墓があることを知る人はなかなかいません。

こちらがもう一つの「井上家」の墓。
この墓の主は井上達三。苗字のとおり、成美提督の実兄です。
井上達三とは
井上成美は井上家の九男のため、上に兄が多くいました。
まずは長兄の秀二。
本当は四男でしたが上が早逝したため井上家の長兄として家を支えました。
あまりに優秀すぎて「傲慢になってはいけない」と中学をわざと留年させられた伝説を持つ大秀才で、京大を卒業し土木エンジニアとしての道を歩みました。
日本土木学会の会長にも就任したことがあるせいか、その業界ではかなりの有名人だそうで、業界では成美は「秀二会長の弟」扱いだそうです。
成美はこの秀二と仲が良かったようです。
特に幼い時に母親を亡くした九男の成美にとって、年の離れた兄嫁は母親代わり。
戦後に隠遁した横須賀の長井の別荘も、そもそも秀二との縁でした。
もう1人が今回の墓の主の達三。

達三は海軍の弟と違い、陸軍へ進みました。
砲兵や輜重兵、つまり補給や後方支援のスペシャリスト畑を歩み、中将にまで昇進した人物です。
しかも、陸軍大学(陸大)を卒業せずに将軍になった「無天組」で、陸大卒の同期の寺内寿一より4〜5年出世が遅れたものの、当時としてはかなりの出世。
特に輜重専門で大将になった例はなく、陸大を優秀な成績で卒業しても少将か中将が半々。それで「無天組」の中将はスーパー級に優秀だったか、オンリーワンの技能や見識が余人に代えがたい人材だったのでしょう。
しかし、陸軍はそもそもの人数が多かったせいか、達三は全く知られておりません。
その間接的な証拠を。
多磨霊園に眠る有名人のWeb上リストに、「歴史が眠る多磨霊園」というサイトがあります。
管理者が編さんした同名の図書もあり、サイトはあいうえお順になどカテゴリ別に整理されています。特に軍人は陸軍と海軍でかなりの数が掲載されています。
その中の陸軍軍人の欄には…なんと達三の名前がないのです。
歴史的には無名以下の名無し少尉、中尉の名前まで探し当て、よくここまで調べ上げたなと感心してしまうほどの量なのですが、その方をもってしても、井上達三は見つけられなかったのか…海軍史に残る提督の兄貴なのに。

墓誌を見ると、達三は昭和25年(1950)7月8日没と書かれています。Wikipediaでは1950年とまでしか書かれていないので、どなたか編集をお願いします。
隣には、妻のトメの名前があります。彼女は旦那より7年長く生きた後、あちらへ旅立っています。
達三には大正8年(1919)に夭折した男子がいたことが、墓誌からわかります。
しかし、翌年にまた男子(和夫氏)が生まれ、平成30年(2018)までご存命だったとのこと(95歳没)。
本当に最近まで生きていたので、こういう人のお話を聞きたかったなと悔やまれます。
しかし、「最後の海軍大将」効果で「本家」の方のお墓には毎日線香の香が絶えない反面、近くの達三の墓には訪れる人もほとんどいないのか、花も枯れ少し寂しそうでした。
最後に
長兄の秀二と比べ、成美大将は達三との絡みはほとんどなく、ネタになりそうなエピソードはありません。
が!最後にとんでもないネタを用意してくれていました。
この記事を書く際に初めて達三兄のご尊顔を拝見したのですが…しかしまあ…さすがは実の兄弟、成美大将とそっくりすぎて笑っちゃいました。

こうして並べてみると、顔の輪郭と耳の形、そして目の上のくぼみまでそっくり。土木学会のHPに記載されている長兄秀二の写真を見ても、目の上のくぼみ具合がそっくり。
遺伝なのか兄弟3人のハゲ具合までそっくりで、遺伝というものは面白いなということで本編は読み終わりとさせていただきます。
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