川崎のドヤ街 日進町・貝塚をゆく

川崎の日進町と貝塚のドヤ街歴史探偵千夜一夜

日本のドヤ街と言えば、東京の山谷、大阪の釜ヶ崎(あいりん地区)が東西の横綱に君臨し、次いで横浜の寿町が大関に鎮座するというところ。他には、名古屋駅の西側(笹島)も知る人ぞ知る存在で、最盛期には50軒以上あった神戸の新開地も、「街」は滅び”アンコ”と呼ばれた労働者も消えたものの、残滓としてのドヤがわずかに残っています。

が、これらの他にもドヤ街が現役で存在する都市が存在します。それが神奈川県の川崎。
私を含めた部外者は、

川崎にそんなところあったの?

といぶかしむ一方、

そらあそこの性質を考えたらあるやろな…

と地元民であればあるほどこう思ってしまいがち。
ただ、一般世間的には知られていないというのが正解と思います。

今回は、そんな隠れた(?)ドヤ街へご案内。

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川崎ドヤ街① 日進町

川崎のドヤ街日進町の場所

川崎のドヤ街案内その1は、川崎駅から南西の方向にある「日進町」という街区の一角。JR線と京浜急行線にはさまれたエリアです。

日進町は、もともと「堤根」「上並木」「見染町」などの町を統合した町で、「日進月歩に町が発展しますように」という願いを込めて名付けられました。

川崎日進町にある松尾芭蕉の句碑
松尾芭蕉の句碑

川崎は東海道の宿場町として栄えた都市ですが、日進町界隈は旧東海道も含んでいます。松尾芭蕉は東海道を西行し川崎宿で門人たちに見送られる際、

『麦の穂をたよりにつかむ別れかな』

という句を作りました。芭蕉が生きていた時代、ここあたりは麦畑か、野生の麦が生える無人の地だったのでしょう。
その数ヶ月後、芭蕉は大坂で亡くなりますが、ここが芭蕉と門人たちとが顔を合わせた最後の場所となりました。

ドヤ街がある地区は、旧町名でいう「堤根」に該当します。この町名も、昔の多摩川がここまで流れており、その堤防を作ったということから命名されています。

このドヤ街は、昭和28年(1954)に簡易宿泊所が5軒できたことから始まります。それ以前は、駅前にドヤ街があったと一部ブログに書かれていますが、それを裏付ける資料などは見つかりませんでした。

その4年後、川崎市の図書館に残るいちばん古い地図(昭和32年)をまさぐってみると。

日進町のドヤ街
上の地図は昭和38年のもの

かなりの大増殖になっています。日進町が日進町になる前には、すでにここはドヤ街として成立していたのです。その後も、数の増減こそあるものの、ドヤ街のエリアは変わることなく現在に至っています。

では、なぜこんな場所にドヤ街ができたのか。
川崎市は、東京と横浜の間にある地の利を生かし、明治時代から工場招致を進めており、大正初めには早くも現在の白石地区などの埋め立て事業が始まっています。「臨海工業地帯」としての埋立地なら日本でもチョー早めではないでしょうか。
一時はぜんそくなどの公害の温床としてマイナスなイメージを持たれていたのも、川崎=工業都市だから。私も、川崎市民には申し訳ないが、実際に行くまで川崎=工場多い=空気汚いというネガティブなイメージがありました。もっとも、私の故郷を知っていれば、

いやあんたんとこ(堺)も関西屈指の工業地帯、「大阪の川崎」やんか!
ダイキン様、シャープ様、シマノ様に謝れ(笑

とツッコミを食らうのは不可避(笑

しかし現在では、それらの工場も

観光客
観光客

夜景のライトアップがファンタスティックだ!!

とクルージングツアーまで開かれているほどの「観光名所」になっています。

工場はなにも臨海地区だけでなく、内陸部にも多数存在していたのですが、それらが固まっていた地区が現在の日進町。
そんなところに簡易宿泊所、つまりドヤができるのは必然。通勤時間実質0分の職住超近接のできあがり。
ドヤ、日雇い労働者…なんとも言えぬマイナスオーラがただようワードですが、彼らは現代日本の基礎を作った高度経済成長を陰で支え、汚れ役を受け持った昭和史の脇役たちだったのです。

川崎市日進町

そんな工業地帯も、高層マンションが木々のようにニョキニョキと伸びる住宅地となっています。小学校もあり、登校時には小学生が大量に通学する姿も見られます。
最寄りの八丁畷駅から徒歩2~3分、しかも横浜へも東京へも均等な距離。そりゃマンション建てたら儲かりまっせ。

ところで、「川崎のドヤ街」と聞くと、2015年の簡易宿泊所火災を連想する人も多いのではないでしょうか。
11人が死亡した痛ましい火事ですが、自然発火ではなく放火の疑い濃厚の「未解決事件」でもあります。

川崎のドヤ街の火事の場所

火災があった「吉田屋」はドヤの一つでしたが、上に挙げた地区の「通勤時間0分」のドヤで、現存する日進町のドヤと場所も離れていました。
しかも、この地区はドヤ街とは言えないほどドヤの数も少なく、地図で調べても吉田屋を入れて2軒のみ。一匹狼的なドヤだったのでしょう。現在は上述したとおりのマンション群になっており、ここにかつてそこにドヤがあった残滓は全くありません。

日進町のドヤ街を歩く

川崎市日進町のドヤ街

釜ヶ崎のドヤ街は、ドヤに宿泊した回数だけでも通算200回以上ある知らんけどですが、それと比べると日進町には釜ヶ崎にある暗い陰のようなものを感じません。強いて言えば、釜が周囲からいじめられた陰キャなら、日進町はすくすくと育った陽キャという感じなのですが、釜にただようどよーんとした暗さをここには感じないのです。明治からの伝統(?)がある釜と、戦後に形成された日進町という歴史の重層感もあるでしょうけどね。

山谷や釜ヶ崎のようなダークさを求めて日進町へ来ると、なぁーんだと少々拍子抜けする感があります。が、それでも所々にドヤの形跡を見ることができます。

川崎のドヤ街

日進町に来る外来者を歓迎してくれるのは、この地区の案内図。事実上のドヤ配置図となっており、一目でドヤがいくつ、どんなものがあるか一目瞭然。
左上には地区の歴史が簡単に書かれており、これも日進町の「陽キャラ」たるゆえん。

川崎市日進町のドヤ街

「全室テレビ付き」
のくたびれた看板が街の一風景となっているのがドヤ街の特徴となっています。

川崎市日進町のドヤ街

料金も1泊2000円を切っています。月に直すと6万円弱。
ドヤ街の住人が労働者から生活保護受給高齢者に変わって久しいですが、生活保護だと月12~3万円はもらえるはず。なので、6万円なら十分「住」は確保、贅沢さえしなければ十分暮らしていくことができます。ドヤは日雇い労働者のつかの間の宿から、現在は高齢者たちの受け皿として新しい存在意義を与えられています。

川崎市日進町のドヤ街のドヤ大和

「大和」という屋号のドヤ。ここまでくるとドヤというよりは旅館ですが、たたずまいからしてドヤの中では立派なもの。上に挙げた昭和38年の地図でも「大和館支店」と表記されています。
が、入り口の看板はあるもののすでに営業はしていない模様です。

この地区は、川崎駅から徒歩12~3分という立地条件の良さもあり、周囲は開発がかなり進んでいます。実際は八丁畷駅の方が近い(徒歩5分以内)のですが、電車の本数など利便性を考えると川崎駅起点に考える方が良い。
徒歩10分強が近いか遠いかは人それぞれですが、この距離は十分武器になります。

このドヤ街も、その立地条件を活かして「安宿街」として脱皮を図ろうとしています。
山谷や釜ヶ崎のドヤが外国人客(主に安いis正義のバックパッカー)向けに開放され成功したのに倣い、一部の宿はWifiを完備させたりドヤ独特の不潔感を払拭したりと、新しい客の誘致にベクトルを向けているようです。
大阪ともなると、川崎のドヤの金額でテレビどころかWifi完備(しかも高齢者は使わないのか常に高速)の場所もあり、お値段は3000円代と跳ね上がるものの、「ホテルサンプラザ」のような「ドヤホテル」と呼ぶべきニュータイプまであります。

狭い(刑務所の独居房と同じ広さ)、お世辞にも清潔とは言えない、トイレ共同、防音なんて無きに等しい(それでもレオ〇レスよりマシw)のを我慢すれば、ドヤって意外に快適だったりします。wifi完備のドヤって、月額ネット使用料無料のアパートですしね。

川崎市日進町の元ドヤのホテル門宿

その典型が、”KADAYADO”(門宿)というお店。
こちらは古い地図だと「友の家」というドヤだったのですが、それを一人用の宿のリフォームしたもの。女性客や外国人の利用も多く、料金も3000円代前半と首都圏にしてはコスパは良い。

ドヤってどんなものだろう?少し怖いな…

と少し躊躇ためらっている人の処女宿泊としては、決してハードルは高くありません。

NEXT:川崎のもう一つのドヤ街

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