昔のなんばパークスには何があったのかーその歴史を紐解く

なんばパークスは、大阪ミナミの総合商業施設としてすっかり有名になりましたが、このなんばパークスには昔、何があったのか。
私のような昭和世代は記憶にはっきり残っているものの、ここに昔あった建物を知らない世代の方が多くなってきました。
今回は近代史から、何があったのかを紐解いていこうと思います。
難波近辺は、むかし一体なにがあったのか。
なにもありませんでした(笑)
これじゃあ味気もへったくれもないので、もう少し具体的に説明すると。
江戸時代ー難波と「難波御蔵」

江戸時代、難波には大きな米蔵がありました。これを「難波御蔵」と言います。
享保の飢饉の教訓として1732年(亨保17年)に作られた幕府直轄の施設1で、災害や飢饉などの際に米を供出できる、ため池ならぬ「ため米蔵」の役目を担っていました。
この米蔵は維新後も残り、おそらく新政府に管理が移されたものと思われます。

開通直後の南海難波駅を発車する汽車(※電車ではありません)の左側の土塀、これが難波御蔵です。
現在は電車の両数が多くなり、視覚ではあまり感じませんが、実際に電車に乗ってみると難波駅を発車した電車はいきなり少しカーブします。
これはそもそも、難波御蔵があった影響なのです。
御蔵は明治30年(1897)1に役目を終え解体され、今は碑しか残っていません。
明治時代①ー南海難波駅の完成

明治5年(1872)の難波駅近辺の地図です。文字通り何もありません。少し右側(東)を南北に走る堺筋、現在でんでんタウンがあるところ、は宿場が並ぶ繁華街(大阪一のスラム街でもありましたが…)、むしろこっちの方が江戸時代の幹線道路沿いなので賑やかなほどでした。
この地図の約13年後、南海鉄道難波駅が地図赤丸の位置に開業します。ところが、開業当時の難波駅近辺は
「人家は多少あったが多くは葱(ねぎ)畑だった」
引用:『開通五十年』1936年南海鉄道編纂 pp.9
という有様。南海様の公式歴史書にこう書かれているくらいなので、よほどネギ畑しかなかったのでしょう。
かつて、難波近辺はネギの一大産地でした。「なんば」が関西産ネギの代名詞だったこともあり、『鴨南蛮』の南蛮は「なんば」が訛った説もあります。実際、お店によっては『鴨なんば』と表記されている店もあります。
そのネギ畑の真ん中に駅を作ったようなものだったということで、今の人大杉の喧騒からは全く信じられません。
ちなみに、『今宮町史』によると、隣の今宮近辺はレンコンの産地だったそうです。
明治時代〜戦前昭和:大蔵省専売局煙草工場
明治になり使われなくなり、すなわち要らない子扱いされた難波御蔵は解体され、翌年の明治31年(1898)には跡地に大蔵省専売局の煙草工場となりました。
現在のなんばパークスすべてが工場の敷地と思えば、その大きさがだいたい把握できることでしょう。

上の地図は大正12年(1923)刊「大阪市パノラマ地図」の難波の部分を切り取ったものですが、周囲に比して専売局のレンガ色の建物群の大きさが目立ちます。
その南、地図で言えば右下にあたります、には現在、ホテルとヤマダ電機が建っていますが、そこには日本皮革(現ニッピ)の工場があり、ホテル建設の基礎づくりの際、明治か大正のレンガ製の工場跡が出て来たことでも、一部界隈で話題になりました。

昭和17年(1942)の大阪市航空写真です。当然ながら、専売局の建物も存在しています。私が知りうる限り、現存しているものとしては、戦災で焼け野…いや更地になる前の難波の最後の姿です。詩的な表現をすれば、大大阪時代の空の遺影です。
上述したとおり、難波近辺は昭和20年(1945)3月の空襲で焼失…いや「消失」という言葉がふさわしいほど焼き尽くされました。
空襲直後の難波駅周辺の写真は何枚かありますが、今回のお題にふさわしい専売局方向の写真を。

(出典:『高島屋135年史』)
空襲直後の、高島屋から見た専売局です。高島屋はあの空襲でもほぼ無傷でしたが2、南海の駅のホームはほぼ全焼、屋根の骨組みだけが残る無残な姿に。
その奥の専売局、一見無傷のように見えますが、残ったのは外壁のみで中は焼けて跡形もありません。専売局自体もこの空襲の日をもって機能不能となり、「ご臨終」となっています。
ちなみに、この煙草専売局の現役当時の写真、ググったら何枚か出てくるだろう…と思っていたら、一枚も出てこないという予想外の結果に。そんなに残ってないのか!?そんなアホな!?と首を傾げつつも、今度大阪の図書館に行った時に問い合わせてみようと思います。

空襲から3年経った昭和23年(1948)の写真では、専売局の部分は残った建物も解体され完全に更地となっています。


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