
山陽本線の兵庫駅。
神戸空襲と言えば『火垂るの墓』の知名度や現在も残る機銃掃射の弾痕もあって、三ノ宮を中心に語られることが多いです。
が、当然他の駅近辺も被害を被っています。
今回は、兵庫駅近辺を検証してみようと思います。
神戸空襲直後の兵庫駅

兵庫駅近辺の空襲後、おそらく終戦直後か1946年はじめあたりの写真とされています。
黄矢印が、当時兵庫駅前をターミナルにしていた山陽電鉄の兵庫駅、その奥の高架が兵庫駅です。
国鉄の兵庫駅が焼け残ったのは、空襲で生き残った人の証言から確かですが、山陽電鉄兵庫駅もなんとか焼け残ったようですね。中身がどうなっているかは知らないけれども…。
山陽兵庫駅が写っていることから、これは北側から南側(兵庫駅方面)を撮影したものということがわかります。
ここ兵庫区周辺は、昭和20年(1945)3月17日未明の空襲でかなりの被害を受けていますが、ここまで瓦礫の山になっていたとは、予想以上です。
なお、『火垂るの墓』での空襲は6月5日のことで、3月と合わせどちらも「神戸大空襲」と呼ばれているので、歴史に詳しくない人はちょっとややこしい。
神戸市立図書館の特別展示には、兵庫駅近辺の写真がもう一枚ありました。

説明書きによると、兵庫駅から少し東側の三川口町周辺を写したもので、羽坂通にある八王子から南側を写したものとされています。
いちおうここあたりの地元民ですが、これはどこかどこなのか見当がつかないほど焼け野原になっています。
さて、ここは一体どこなのか。
神戸市民の責任として、場所を特定してみたいと思います。
写真の場所の現在は!?
といっても、「三川口町」「八王子」というキーワードがあるので、特定は比較的簡単。
キーは、高架の山陽本線(現在のJR神戸線)の架線の間隔。

高架線の架線柱の間隔が、ブロック4つ分と等間隔に架かっていることがわかります。

JRの高架線は当時のままで、ブロックで仕切られた架線柱の間隔は現在も変わっていません。
柱と柱の間が4つに区切られていることが目視できるでしょう。
でも、ここである疑問が生まれます。

この架線の間隔、どこも同じちゃうのん?
ところが、場所を特定するに当たって決め手となるポイントがあるのです!

地元民の私も、意識して見ないと気づかなかったことですが、上の地図の赤実線の間隔は4つなのですが、青星部分の道を境に点線部分になると間隔が一気に長くなり、ブロック10〜12個分となるのです!
というわけで結論。

こちらの写真は…

この角度で撮影したものと思われます。実際はもっと後方かもしれないですけどね。
もう一つの事実
今回の調査でもう一つ、面白いことがわかりました。

この写真の高架線部分を限界まで拡大してみると。

何やら番号が振られているのがわかります。高架下も倉庫や店として貸し出していたので、その目印としての番号でしょう。
赤枠で囲った番号は、「167」「168」と書かれています。右側は「156」か「166」に見えますが、「167」の左隣が「166」「165」と続くので、「168」で間違いありません。
そして2025年の現在…

80年後も同じ番号が振られているではありませんか!
これは予想もしなかった発見です。
まあ、それがどうしたと言えばそうですが、こういう地味な発見も歴史家としての愉しみの一つ。自己満ではありますが、それでいいのです。

上から高架線を見てみると、架線柱も80年前から変わっていないことがわかります。
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