洲崎遊郭跡は今…
「遊郭跡を歩く」といっても、前述のとおり戦前の遊郭は空襲で跡形もなく焼けてしまい、一部を除き何も残っていません。なので、実際には戦後の赤線「洲崎パラダイス跡を歩く」となります。
実はここ、2008年に一度探索したことがあったのですが、今回は13年ぶりの訪問。13年の間にどう変わったのかも含め、比較していきたいと思います。
現在では地下鉄東西線の東陽町駅、木場駅が最寄り駅になっています。
洲崎遊郭(パラダイス)跡は両駅の中間にあり、どっちでも下車可ですが木場駅の方がやや近いかな。また、錦糸町駅から都バス07に乗っても可。本数が6〜8分おきにある上に、「洲崎半島」の入り口に「東陽三丁目」というバス停があるので。
洲崎遊郭ができた明治時代の交通の便は、船か人力車のみだったのですが、大正初期には市電が開通、「洲崎」で降りると目の前が大門でした。また、「城東電車」と呼ばれた城東電気軌道という私鉄も、昭和4年(1929)に洲崎の前まで開通させています。いわゆるチンチン電車とは言え、鉄道が2本、そして市営・私営のバスも頻繁に走っていたほど洲崎が栄えていたことが、交通史からもうかがえます。
昭和6年(1931)に洲崎を訪れた永井荷風も、
「遠く境野のはづれに洲崎遊郭とおぼしき燈火を目あてに、溝渠に沿びたる道を辿り、漸くにして市内電車の線路に出でたり。豊住町とやらいへる停留場より電車に乗る。洲崎大門前に至るに燦然たる商店の燈火昼の如し。」
永井荷風『断腸亭日乗』昭和6年11月27日
とあるように、市電に乗って訪れています。といっても、豊住町の次の次の停留場が洲崎なんですけどね。荷風よそれくらい歩けよ。
「遊郭半島」こと洲崎の大門をくぐる前に、一件のそば屋があります。「志の田そば」という名前のそば屋ですが、ただのそば屋ではありません。
昭和9年(1934)の写真から存在が確認され、映画『洲崎パラダイス』にも同じ場所に登場する、洲崎の顔と言っても過言ではない生き残りです。遊郭とは直接の関係はないですが、おそらく現役時代は妓楼からの出前もあったことでしょう。ちなみに、バス停も名前こそ「洲崎弁天町」から「東陽三丁目」に変わったものの、同じ場所に現存しています。
しかし、13年ぶりに訪れてみたらシャッターは閉じたまま。コロナ禍の中とは言え、非常事態宣言も明けた後。休日の真っ昼間なのに営業している気配もなかったので、おそらく閉店しちゃったのかもしれません。
洲崎の大通りの手前には「洲崎橋」が架かっており、そこに戦前は大門、戦後は「洲崎パラダイス」の看板が掲げられていました。
「洲崎パラダイス赤信号」の人間ドラマの舞台であった、ゲート前の居酒屋兼貸しボート屋「千草」は写真の位置にありました。
「聖地巡礼」がアニメファンの間ではおなじみですが、もし「洲崎パラダイス赤信号」がアニメなら、ここは聖地としてアニメオタクたちでごった返していたでしょう。赤線を舞台にしたアニメを作らないのだろうか…エロゲーならあるのでエロ抜きで(笑
「洲崎半島」を串刺しするように南北に走るこの道が、遊郭時代の大通りでした。現在でもここは「大門通り」という名前で、戦前の遊郭時代には、この通り沿いに妓楼がずらりと並んでいました。
その片隅に、「皇太子ご誕生記念」の碑が立っています。この皇太子とは現在の上皇陛下のこと。洲崎には戦前の遺構は残っていない…と述べましたが、こんなところに小さな生き証人が。
「お、撮影かい?」
そこで偶然出会ったご老人、上皇陛下と同い年というのがご自慢だそうで。洲崎に昔からお住まいですかと聞いてみると、門前仲町出身で洲崎には数年前に移ってきたとのこと。
ダメ元で聞いてみました。
ここ、遊郭でしたけどその時のこと覚えてます?
さすがに戦前は覚えてねーと言いながらも、終戦直後のことは覚えてるらしく、大門通りの左右を指さしアメちゃんのジープが東陽三丁目の交差点から大通りにずらりと並んでたと述べていました。
そして、赤線時代のここ周辺は非常に繁盛してたらしく、盆も正月も賑やかだったと。
かつてはここに、戦後の洲崎を象徴するような青いタイルの建物が、朽ち果てようとしつつもそのいかつい姿をとどめていました。
絵に描いたような、サンプル通りと驚愕せざるを得ないカフェー建築そのものがここにはありました。赤線時代は「サンエス」という屋号の店でした。
大都会東京にまだこんな建物が残っていたのかと驚いたと同時に、建物自体には当時でもガタがきており、13年前に見た時でもこりゃ寿命は短いなとは思っていましたが、やはり数年後に解体されてしまいました。しかし、実際に見て写真に残しておいて良かったです。
洲崎にはこんな建物がありました。資料によると、現役時代は「都」という屋号の店でした。
この青タイルをふんだんに使った建物はまさしくカフェー建築のお手本。前の建物も青く塗装されたり青タイルが使われており、私が見逃した建物も青いタイルが使われていました。海に近かったせいか、洲崎のタイルは青系統が多く使われたのかもしれません。
これを見た時は、保存状態も悪くなかったのでしばらくは安泰だなと思っていたのですが、残念ながら私が撮影した直後、2010年にはすでに建て替えられたようです。ギリギリセーフだった…。
2021年の姿がこれですが、建て替えられたといっても2階の窓の意匠に面影があり、リフォームしただけで内部はそのままかもしれない…そんな妄想をたくましくさせます。
俳優の小沢昭一は、赤線カフェー建築の価値に気づき、1970年代に残った元赤線の建物を写真に収めていましたが、その一部に洲崎もありました。「サロン パール」と書かれた丸窓…砂の上に落ちたコンタクトレンズを探すように地図とにらめっこしてみると、実際に「サロン パール」は実在しました。
洲崎の赤線跡といえば、「大賀」というお店も前回訪問時にはありました。
「大賀」という屋号が当時のまま残ったその姿。当時とほとんど変わらず屋号まで残っているのは、13年前でも相当珍しいものでした。当時は遊郭・赤線跡探偵も少なかったせいか、ネットでもほとんど情報がなく『赤線跡を歩く』片手に街角を徘徊していましたが、洲崎のカフェー建築といえばこれというフラグシップ的な建物でした。
黒い豆タイルがいかにもという感がしていました。1970年代にここに下宿していた人によると、下宿名は「大賀荘」という名前で、四畳半と六畳の部屋がありトイレはもちろん共同、すぐ近くに銭湯があり、下宿の人はそこに通っていたそうです。
これがどれだけ当時と変わらないか。百聞は一見にしかず、下の画像と比べてみましょう。
赤線時代の写真ですが、ほとんど変わってません。昔の写真の姿のまま、自分の目の前にその建物が健在する…扉から和服姿の女性が、「お兄さんちょっとどう?」って出てきそーな妄想さえ駆り立てられるくらいリアルでした。
なお、現役時代は「大賀」と書いて「タイガー」と読ませたそうです。名付け親のユーモアセンスを感じさせます。
しかし、残念ながらこの「大賀」も現存しません。私の訪問時は選挙事務所として使われており、保存状態も良さそうだったためしばらくは安泰と思っていました。が、2011年の東日本大震災で半壊、同年秋に解体されてしまいました。
なお、Google mapのストリートビュー上で2008年を選択すると、その姿をネット上で確認することができます。
旧洲崎パラダイスの生き残りの建物はこれだけ。しかもすべて現存せず…残念ながら洲崎は「絶滅宣言」せざるを得ない。
…と思っていたのですが、13年の時は私に見えない経験値を積ませていました。図書館や公文書館で資料をほじくり回していると、いや待てよ…洲崎の赤線時代の建物、まだ残っているのではないか。
私のぼんやりとした仮説は、徐々に確信へと変わっていきました。
コメント
先日、玉ノ井カフェー街に行ったついでに駆け足で鳩の街も見に行ったのですが、情報が不正確な某サイトを見たために場所を間違えていてなにも見られず、反省して勉強し直しでこのサイトに出会い、大いに学ばせていただきました。ありがとうございます。
さて、洲崎のページで提言を一つ。「現役時代は「都」という屋号の店」ですが、よく見ると、二階の窓と一階の窓のサイズと位置関係が変わっていないこと、二つある電気・ガスメーターの種類と設置位置が変わっていないこと、一階の窓と玄関の引き戸の位置関係および双方のサイズが変わっていないこと、以上の理由から、実施されたのは「カフェー建築のガワ(装飾部分)」だけ引き剥がして再塗装した工事で、この建物は躯体を全くいじっていないと推定されます。建物の角にあった青いタイル張りの柱に見えたものは、おそらく張りぼての装飾であり、それを撤去することで隣家との間隔が広がったと思われます。おそらく、ネットで「カフェー建築」として有名になったことから、オーナーが自宅の「黒歴史」を知らしめる特徴的な外観を手軽な工事で消失させたものと思われます。もし現地に再訪されるのであれば、隣家との隙間から見えるであろう屋根の形状や二階側面の窓の位置と形状が、改装以前と同じであることを確認なさることをお勧めします。また、写真では判然としませんが、家の前のコンクリ製たたき部分は全くいじっていないようですので、現地でコンクリ表面の経年変化を見てみるのも良いと思います。私は建築は素人ですが、古家を取り壊してから新築するのであれば完全に更地にするはずで、もし家の前に設置から数十年が経過したコンクリのたたきが残っていたら、そこにあるのは元々あった「カフェー建築」と見ていいはずです。