洲崎遊郭(東京都江東区)|おいらんだ国酔夢譚|

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戦後の赤線時代-「洲崎パラダイス」

戦後の洲崎赤線の場所

しかし、終戦の半年後には各地に散らばった洲崎の業者の一部が戻り、戦後は「洲崎半島」の右側半分、上の地図で赤く塗った部分のみが「赤線」として再出発します1

洲崎パラダイス 赤信号

戦前には大門、戦後には写真のような「洲崎パラダイス」と書かれたネオンゲートが建てられました。おそらく赤やピンクのネオンが煌々と点り、男どもを引き寄せていたのでしょう。

規模は半分になってしまいましたが、赤線としての洲崎は、「洲崎パラダイス」として昭和29年(1954)にはカフェー220軒、従業婦800人を誇る、全国的にも規模が大きい方なカフェー街として栄えました2

この時期の洲崎を、『全国女性街ガイド』はこう表現しています。

新潟・富山女が多く、体力的にサービスしてくれるのが特色だが、もう一つの特色はマワシの多いこと。百十一軒五百六十名ほどの女の半分がマワシ専門というだけあって、一時過ぎだと岩倉具視(500円)でも泊れる。

『全国女性街ガイド』

昭和30年代頃の東京特飲街の玉代は「ショート」で300~500円、「時間」で700円~1,000円、「泊まり」で千円から二千円が相場でした。作家の野坂昭如が、新宿花園の青線での「ショート」が300円、「時間」が500円、「泊まり」が1,500円だったと記しています。

洲崎パラダイス赤信号

洲崎の名を全国に轟かせ、現在でも伝説の赤線として名を残している理由の一つに、映画「洲崎パラダイス・赤信号」(日活)が挙げられます。三橋達也などが出演したまっとうな映画で、日活ポルノではありません(笑
川島雄三監督作品の中でも傑作の一つとして有名な映画で、売春防止法が施行される前の洲崎を舞台にした人間ドラマです。展開が二転三転して感情移入しやすく、映画は普段見ない私が見ても非常に面白い作品でした。さすがは映画史に残る傑作は違うわ。ただ…芦川いづみ嬢が不惑男を久しぶりに青春に還らせたくらい天使すぎて(顔もそうだが健気な役柄が)、ストーリーが半分くらい吹き飛びました(笑

この映画の封切りは昭和31年(1956)。年代からわかるように赤線が現役の頃。メイン舞台は「洲崎パラダイス」の看板の手前にある飲み屋ですが、一部を除き現場でロケを行っており、映像がそのまま東京や洲崎近辺を語る貴重な歴史資料ともなっています。ないものねだりですが、この映画、総天然色(カラー)で撮られていたら、ものすごく臨場感があっただろうなと。

この映画の中で、飲み屋の常連であるラジオ商が飲み屋で一杯やった後、夜の洲崎へ繰り出し、朝に洲崎パラダイスのゲートから出てくるシーンがあります。その前に二千円とかどうだのという台詞が出てきますが、これは当時の「お泊まり」の相場と一致します。

なお、この映画の出演者3の一人に、小沢昭一がいます。現役の赤線経験者として赤線エッセイを残し、カメラ片手に赤線廃止後抜け殻になったカフェー建築を写真に残した人物ですが、東京の赤線を渡り歩いた彼をして、洲崎は「何だかサバサバしていて私の趣味に合わ」ず4、好きになれなかったようです。

そして、洲崎にも「その時」がやってきます。
売春防止法完全施行は昭和33年(1958)4月1日でしたが、洲崎はその2か月前の1月31日に赤い灯を消し、根津から数えると100年以上の歴史に幕を閉じました。派手に閉業大セールをやったわけでもなく、それ最後の日だと男でごった返すこともなく、その最期は意外なほど静かであっけなかったと言います。

赤線廃止後の東京洲崎遊郭
赤線廃止と同年の住宅地図5を見ると、地図の至る所に「アキヤ」の文字が。「アキヤ」のところはほとんどがカフェーでした。こういうブログを書いている縁で、赤線廃止直後から数年後の住宅地図に目を通すことが多いですがたいていは旅館などに転業したまま残っているもので、見切りをつけて洲崎を棄てたかここまで「アキヤ」な地図は珍しい。
赤線がなくなった後は急速に廃れたと小耳に挟んだことがありますが、それが地図の記号の上からでも感じることができます。

NEXT:洲崎の赤い灯の跡を歩く
  1. 昭和28年(1953)の火災保険地図による
  2. 同時期の吉原が約900人、大阪松島が約1000人、飛田が約1300人だった。
  3. 主人公の男が働くそば屋の出前係。
  4. 『昭和の肖像(町)』より。
  5. 江東区立図書館所蔵。
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コメント

  1. MA より:

    先日、玉ノ井カフェー街に行ったついでに駆け足で鳩の街も見に行ったのですが、情報が不正確な某サイトを見たために場所を間違えていてなにも見られず、反省して勉強し直しでこのサイトに出会い、大いに学ばせていただきました。ありがとうございます。
    さて、洲崎のページで提言を一つ。「現役時代は「都」という屋号の店」ですが、よく見ると、二階の窓と一階の窓のサイズと位置関係が変わっていないこと、二つある電気・ガスメーターの種類と設置位置が変わっていないこと、一階の窓と玄関の引き戸の位置関係および双方のサイズが変わっていないこと、以上の理由から、実施されたのは「カフェー建築のガワ(装飾部分)」だけ引き剥がして再塗装した工事で、この建物は躯体を全くいじっていないと推定されます。建物の角にあった青いタイル張りの柱に見えたものは、おそらく張りぼての装飾であり、それを撤去することで隣家との間隔が広がったと思われます。おそらく、ネットで「カフェー建築」として有名になったことから、オーナーが自宅の「黒歴史」を知らしめる特徴的な外観を手軽な工事で消失させたものと思われます。もし現地に再訪されるのであれば、隣家との隙間から見えるであろう屋根の形状や二階側面の窓の位置と形状が、改装以前と同じであることを確認なさることをお勧めします。また、写真では判然としませんが、家の前のコンクリ製たたき部分は全くいじっていないようですので、現地でコンクリ表面の経年変化を見てみるのも良いと思います。私は建築は素人ですが、古家を取り壊してから新築するのであれば完全に更地にするはずで、もし家の前に設置から数十年が経過したコンクリのたたきが残っていたら、そこにあるのは元々あった「カフェー建築」と見ていいはずです。

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