大宮の赤線跡を歩く

大宮の遊里跡への最寄り駅は、もちろん大宮駅。何本もの鉄道がここで交差する交通の要衝で、現在は規模を縮小させたものの、大きな鉄道工場もある鉄道の街でもあります。
大宮に私娼窟が作られた理由は、前述したとおり、工場だけでも数千人、いや、大宮の規模なら工員・駅職員たちの総数は1万人近くいたかもしれない鉄道従事者目当てというのが大きかったでしょう。
大宮の遊里は、東口から何も考えず北へ進み、徒歩5〜6分の距離にありました。

北銀座の入口は、血は争えないのかこのように風俗店。60年前の赤線時代も、この狭い道の両側に店が並んでいたようです。

料亭組合事務所跡は現在、公民館になっています。

ニコイチならぬ「ヨンコイチ」な建物。こちらは大宮北銀座を取り上げたブログには必ず取り上げられていますが、なぜなら…

このように鑑札がそのまま残っているから。

当時の地図を頼りに、ひととおり赤線地帯のエリアを周回してみたところ、当時から残っている建物はここだけでした。地図によると、ここは「柏屋」という屋号の店とのこと。
門や窓は固く閉ざされており、生活痕跡もなさそう。おそらくすでに主がいない無人の家の模様。
しかし、この姿が私が見た「柏屋」の最初で最後の姿になろうとは、当時の私はつゆとも思っていませんでした。
それから2週間後、野暮用で関東方面へ向かった際、何やら胸騒ぎが。

(変な予感がするので)もう一回行ってみるか…
と大宮で途中下車することとなりました。行ったばかりの遊里跡に時間を置かずもう一度行くのは、色んな遊里跡を回った中でもほとんど前例がありません。
何か嫌な予感がするものの、その理由がわからないまま行ってみると…

なんということでしょう!!!
あの柏屋が解体中だったのです。たった2週間前に「生存」を確認した建物が、たった2週間で「死亡」を目にしてしまうとは。

2階部分はほぼ重機の餌食になっていたようで、窓枠から見える青空がむしろ痛々しかったです。

しかし、解体中だったからこそ見れるものもありました。1階の生活空間が丸見えだったのです。といっても、ここがかつて赤線の店だったという面影はどこにもなし。
この一件から、私は「虫の知らせ」というものを少し信じるようになりました。

ちょうど下校時だったのでしょう、小学生がわいわいおしゃべりしながら道を歩いていました。
かつて娼館が軒を連ね、女たちが嬌声のハーモニーを醸し出していた遊里のメインロードも、今は小学生の下校道。60年余の時の流れは桃色の穢れをすっかり洗い落としたようです。といっても、隣には現役バリバリの特殊浴場があるのですが。
今回はこれにて読み終わり!
…としたかったのですが、Googleマップの過去のストリートビューをまさぐりながら過去の地図と照合していると、マップ上に在りし日の建物がけっこう残っていたことが判明。
せっかくなので、ちょいと晒してみることにします。

こちらはまさにビンゴ。「小竹・竹葉」と地図に書かれた店の跡です。

上の「小竹・竹葉」の横にあったこの建物、こちらは地図上では屋号こそなかったものの、赤線の店のマークが入っていました。

こちらは鑑札が残っている建物の横にあったもの。
これはどうも最近(コロナ前)まで残っていたようなので、実際に見た人も多いのではないでしょうか。

こちらも2018年まで残っていた旅館。前身はわかりませんが、同じ場所に「福山」という店があったので、おそらく転業旅館ではなかったのではないかと推測しています。
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