鶯谷の「自由区域」と私娼窟
大正後期、純粋な宗教の町だった高野山にも、住宅や商店などが無秩序に並び風紀の乱れも激しくなってきました。そこで、大正後期に町の大整理を行うことになりました。
大正10年(1921)11月、「山内土地整理計画委員会」が発足し町を整理し区分けすることになりました。その区域とは次の6つ。
それぞれ「棲み分け」をつくろうという計画ですが、今回キーとなるのは最後の「自由区域」。
まずは、いかがわしい地域と化した「上の段」の整理。「上の段」にあった料理屋などの歓楽街は「自由区域」にすべて移動。…というと聞こえはいいけれども、体の良い隔離です。
その「上の段」に新しく作られたものは…
現在の高野山大学です。
高野山大学の起源は、古くからたどると9世紀にまでさかのぼりますが、近代教育制度としての大学としては昭和初期(許可は大正末期)設立の旧制大学からの歴史があります。
旧制大学として認められる前の大学は金剛峯寺内にあったのですが、旧制大学としての資格を得るために新しいキャンパスの建設を開始、それが元の歓楽街、「上の段」でした。
要は、大学をそこに移転させるという名目で「遊郭」をつぶしてしまえということです。
体よく追い出された煩悩の塊は、街の端にある自由区域に追い出されたのですが、そこが「鶯谷」でした。
鶯が鳴くから鶯谷…古くからありそうな地名ですが、高野山の古い地図を古い順で見るとそこには地名すら存在しておらず、おそらく自由区域に指定された時に付けられた地名だと思われます。
江戸時代から昭和初期まで高野山の歴代の地図をまさぐってみると、鶯谷自由区域は大正末の地図から出現し始めます。こちらの地図も、高野山大学がまだ金剛峯寺内にあるので(地図左端に「大學校」と書かれている)、大正末期の頃だと思われます。
鶯谷自由区域の記録は、古い記録をまさぐってみると大正13年(1924)に初めて出現します。
鶯谷とは高野山が境内整理を行ふ第一着手事業にて、山内に於ける飲食店の移転先にて、一種の娯楽場を形成すべき自由区域に命名して鶯谷と称し(以下略
『六大新報 第1077号』
「飲食店」とはもちろん売春の私娼窟のことで、それを鶯谷へ集約して私の造語でいう「準遊郭」をつくってしまえということ。飲食店と名指ししていることからも、けっこう「繁盛」してたのでしょう(笑
鶯谷へ続く道の入り口には、「鶯谷入口」と書かれた門柱が立てられ、そういう意味では鶯谷は自他共に認める「遊郭」だったというわけです。
もちろん、この「遊郭」は「何かで囲まれ中が娑婆と別世界のアミューズメントパーク」という、浦安のねずみーらんどや大阪の全世界劇場のような広い意味での遊郭です。
鶯谷自由区域にあった料亭、その名も「うぐひす楼」。
鶯谷自由区域にあったのは何も私娼窟だったわけではなく、料亭や劇場など、いわば俗世間の煩悩をすべてそこに詰め込んだレジャーランド。しかもスキー場まであったというから、コンセプトとしてはTDLと変わらんやないかいと。
金剛峯寺を中心とする結界の外に「娑婆」を隔離してしまえ、いかにも宗教都市高野山らしい。
しかし、事実上の私娼窟である「料理屋」は、数多く存在していたようです。
昭和13年(1838)の厚生省の資料によると、鶯谷の「料理屋」の数は15軒、そこで働く「仲居」の数は35名。同時期の同県の私娼窟、天王新地は40軒110人、東和歌山駅1前にあった「駅前遊郭」こと阪和新地が17軒55人。
数字だけ見ると阪和新地といいとこ勝負していることから、高野山のさらに山奥の…といっても侮れない数字です。
当時の鶯谷の様子を描いた絵が残っています。
店の前には「料理」なんて書いていますが、料理なんて食えない作れない料理屋…いや、酒くらいは飲めたかも!?な「仲居」こと売笑婦が
あらーお兄さん寄ってらっしゃい♥
と、絵のように服を引っ張られ熱烈歓迎を受けます。二人に前後を囲まれたら、お兄さんもう逃げられない(笑
そして、その横には「料理屋」へご案内〜の男が一人。今晩はお楽しみですか?
鴬谷をめぐる「門柱事件」
そんな鶯谷をめぐる、高野山、というより高野山大学の歴史に残る事件があります。
上述のとおり、鶯谷自由区域組合(仮称)は自由区域の入口に門柱を立てました。
場所は現在の高野山派出所の隣、写真の場所にあたります。写真は残されていませんが、門柱は東京の吉原大門を模したものと言われています。
その門柱の奥には、高野山大学の学寮が存在していました。仏の道、仏とは何か、そして生きるとは何かを真剣に思索する彼らにとって、この門柱をくぐって通学しなければならないのは屈辱以上の何かでした。
学生たちは何度か鶯谷の組合側に門の撤去を求めるも、組合は聞く耳を持たないまま幾年月が経った昭和12年(1937)、ついに「その時」が参ります(松平定知風
6月20日の深夜、寮生50数名が門柱を、小学校から借用した綱引き用ロープで無理矢理引き倒し破壊してしまったのです。
門柱を倒しただけでなく、警察署の真横で起こした器物破損ということで警察もメンツが丸つぶれ。首謀者数名は逮捕・拘留され処分を待つこととなりました。
これで高野山の意見は、よくやったという擁護派と、何さらしとんねん💢という鶯谷自由区域側などで真っ二つ。
まずは謹慎の上、般若心経十巻浄写という反省で済ませようとしたのですが、鶯谷側はそれに満足せず、
門柱は電柱も兼ねていたから電柱を破壊したのと同じじゃ!
と警察と検察に告発。すわ刑事告訴か!?と山に動揺が走った時、高野町長が仲裁に乗り出し、門柱撤去の代わりに3個の電灯を設置することで解決。
学生たちへの告発も取り下げとなり、事態は一件落着となりました。
この騒動を、「門柱事件」として高野山大学史に刻まれています。
そんな事件から7年後、下界の戦争の激化につき高野山もレジャーどころか参拝客すらも少なくなり、昭和19年(1944)3月5日に鶯谷の料理屋・カフェーが全て閉業し、従業員も解散となったと記録には記されています。
戦後の鶯谷自由区域については、文字的な資料は何も残されていません。さすがの『全国女性街ガイド』も高野山はノーマークだったか、それとも本当に洗浄され「きれい」になっていたのか、鶯谷については何も語られていません。
高野山にはとある有名な宿坊に宿泊しました。日帰りでは何度か来たことがある高野山ですが、泊まりとなるとそれこそ小学校の林間学習以来でした。
そこでお世話になった地元の信徒さんに、鶯谷に遊里があってうんぬん…という話をしたところ、なんと鶯谷出身のビンゴ。昭和20年代後半生まれなので当時の記憶はなんとなく…とは言ってたものの、やはり「そういうお店」はあったらしく、「長谷川」「れんげつ(漢字は失念)」「ときわ」など3〜4軒はあったとおっしゃっていました。
鶯谷自由区域を歩く
「自由区域」だった鶯谷は、高野山の中心地から北に外れた位置にあります。金剛峯寺と高野山大学に挟まれた東西に連なる道路が高野山のメインロードなので、鶯谷がいかに「隔離」されたことがわかると思います。
写真左側が和風建築の高野山警察ですが、伝聞によると警察署の隣、全面の信号の位置に「鶯谷入口」と書かれた大門があったとのこと。当然ながら、現在は何の遺構もありません。
「大門」があった場所から鶯谷までは、けっこうな距離があります。現在でも暗くなると街灯があっても心細いほどの道、昔は街灯などがあったのだろうかと想像してしまいます。
歩くこと約10分、このような分かれ道に遭遇します。右側は標識には何も書かれていませんが、こちらがシン・鶯谷への入口となります。
電信柱の地域表示は、鶯谷ではなく「鶯」。一文字だけだと少し物足りなさを感じますが、そもそもここの地名は「鶯」だったのかもしれません!?
さて、現在の鶯谷の風景はどうなっているのか。昔の「料理屋街」の残滓は残っているのか!?
宿坊の中の人に聞いてみても、残っていないというつれない返事でしたが、いや、地元民でも意識していない何かが残っているかもしれない…ほぼノーヒントながら集落をくまなく回ってみました。
こうして写真をまとめていることからお察しですが、戦前の「自由区域」を偲ばせるものは何一つ残っていませんでした…今回の「賭け」は私の負けでした。
しかし、どうしても諦められない往生際が悪いこのわたくし。
鶯谷集落に唯一残る、少し丘の上におわします神社へ上ってみました。もしかして鶯谷料理組合が遺した玉垣か寄進した灯籠なんかが残っていたら…日が暮れそうになり残された時間がわずかの中、私は最後の賭けに出ました。
その結果は…負けでした。
結論。高野山にあった最期の煩悩は、跡形もなく消え去っていました。。。
しかし、それでいいのです。「何もない」という収穫を得ただけでもここまで来た甲斐があったし、高野山にはそもそもそんなものは似合わない。
高野山はやはり聖地であって欲しい。金輪際「料理屋」は出て欲しくない。そんな思いを抱きながら宿坊に帰り、お寺の鐘の音を聞きながら精進料理…ではなく、素泊まりだったのでコンビニのからあげ定食。高野山に泊まる時は絶対料理付きにしよう、そんな思いを抱いた私でありました。
他にもこんなブログがあるのでどうぞ!
コメント