遊郭探偵として全国の遊郭の場所をだいたい把握すると、所々に遊郭がない「空白地帯」なるものが存在することに気づきます。
個人的には、高野山あたりは絶対怪しい…「般若湯」があるのだから「般若廓(仮称)」があってもおかしくない。いや、実際にあったりして。
島根県にも、その「空白地帯」があったりします。それが出雲市。
内務省警保局1や『島根県統計書』などの公的データには、松江や浜田、益田には遊郭が存在しています。また、昭和初期に廃廓したそうですが、鳥取県境港の向かいの美保関にも遊郭が存在していました。
しかし、出雲にはない。
ないですか、そうですか。で普通は終わるでしょう。私も、まだ駆け出しの頃はそう思っていました。が、経験を積んで改めて意識してみると、娯楽なんて「食う・寝る・ヤる」しかなかった当時としては、これは明らかに違和感がある…
もしかして、あの出雲大社のお膝元ゆえに「穢れ」を一切近寄らせない結界のようなものがあったのかとも思いましたが、人間の根源的な欲望は、結界など余裕のゆうちゃんでぶち破ります。
ないわけなかろう…そんな前提で資料をほじくってみると、やはり存在していました。
出雲(今市)の遊里
出雲の遊里は、公に認められた遊郭ではない以上、当然公的なデータには出てきません。しかしながら、断片的ながらそのデータが予想外なところから出てくることがあります。
昭和11年(1936)刊『出雲今市商工案内』には、こんな記載があります。なお、現在の出雲市駅周辺は「今市」と呼ばれ、現出雲市駅も昭和32年までは(出雲)今市駅でした。
色街はやはりあったようです。が、情報はそれだけで、今市ゆえに、情報もいまいち出て来ないようです。
が、別の資料によると、その「新開地」は同じ昭和11年に郊外に移転されたとの記載があります。その場所が、戦後の赤線まで続く「新・新開地」となりました。その「新・新開地」はのちに「有楽町」と名を改め、「塩冶新地」と呼ばれることになります。
私の手元にある、内務省衛生局作成の全国私娼窟リストには、昭和8年、9年版には出雲の記載はありません。
が、同13年版から「塩冶村新開地」の名でリスト入りされ、14年版にも記載されています。
また、今市には別に花街も存在しており、『出雲今市商工案内』によると検番も4つ存在していました。
有楽町の「特殊喫茶」
戦後、有楽町の私娼窟は赤線となりました。業態は「特殊喫茶」。「特殊」と名がついているだけお察しですが、東京にあるようなカフェーとしての形態だったのでしょう。
昭和23年(1948)の『出雲商工案内』には、「特殊喫茶店組合」の広告があり、「塩冶新地」の名も明記されています。そこに記載の特殊喫茶店は以下の通り。
大三亭、新亭、花家、百々乃家、旭亭、富時家、郎亭、京家、菊代亭、いなばや(こちらは直江村の店)
合計:10軒
また、この翌々年の昭和25年(1950)の『市制施行十周年記念 出雲市勢要覧 昭和26年版』では、特殊喫茶店数9軒との記載があり、上記の数とほぼ一致します。
また、昭和27年(1952)の特殊喫茶店は以下の通り。
壽亭、菊代亭、京家、朝日亭、第三亭、百々の家、富時家、郎亭、花家
合計9軒で『出雲市勢要覧』と同数となっています。
また、『出雲市商工発展史』によると、うち菊代亭、朗亭、花家、富時家、京家の設立は「昭和10年」となっており、今市の西端にあった頃からの店ではないでしょうか。
また、図書館でほじくった赤線現役時代の地図を調べてみると、興味深いことに、赤線地帯は「新開地」と表記されています。当時の手書きの地図なので、当時も新開地と呼ばれていた可能性があります。
そして運命の昭和33年4月を迎えます。
有楽町の業者は数回にわたり赤線廃止に向けての対策協議を重ねた結果、廃止後は旅館・下宿などの転業することに決定し、売春街としての短い歴史に幕を閉じました。
紅い灯が消えた後は、上記のとおり主に旅館としてスタート、赤線地帯は「有楽町旅館街」に一新され、昭和43年(1968)の『出雲商工名鑑』記載の『旅館』には8軒がエントリーされています。赤線廃止直前、もしくは時点での業者数は定かではないですが、昭和27年から変わっていないと仮定すると、ほぼすべてが旅館に転業となったと推測できます。