性地巡礼 洲崎遊郭(洲崎パラダイス)の跡地を歩く|遊郭・赤線跡をゆく|

東京では吉原遊郭に次ぐ規模だった州崎遊郭、赤線の州崎パラダイスの現在の姿はどうなっているのか。 遊郭・赤線跡をゆく
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かつてあった洲崎のカフェー建築たち

かつてはここに、戦後の洲崎を象徴するような青いタイルの建物が、朽ち果てようとしつつもそのいかつい姿をとどめていました。

洲崎のカフェー建築

絵に描いたような、サンプル通りと驚愕せざるを得ないカフェー建築そのものがここにはありました。赤線時代は「サンエス」という屋号の店でした。

大都会東京にまだこんな建物が残っていたのかと驚いたと同時に、建物自体には当時でもガタがきており、13年前に見た時でもこりゃ寿命は短いなとは思っていました。
案の定、やはり数年後に解体されてしまいましたが、実際に現物を拝み写真に残しておいて良かったです。

洲崎遊郭のカフェー建築

洲崎にはこんな建物がありました。
資料によると、現役時代は「都」という屋号の店でした。

この青タイルをふんだんに使った建物はまさしくカフェー建築のお手本。前の建物も青く塗装されたり青タイルが使われており、私が見逃した建物も青いタイルが使われていました。海に近かったせいか、洲崎のタイルは青系統が多く使われたのかもしれません。

これを見た時は、保存状態も悪くなかったのでしばらくは安泰だなと思っていたのですが、残念ながら私が撮影した直後、2010年にはすでに建て替えられたようです。ギリギリセーフだった…。

洲崎パラダイスカフェー建築

2021年の姿がこれですが、建て替えられたといっても2階の窓の意匠に面影があり、リフォームしただけで内部はそのままかもしれない…そんな妄想をたくましくさせます。

洲崎パラダイス赤線

俳優の小沢昭一は、赤線カフェー建築の価値に気づき、1970年代に残った元赤線の建物を写真に収めていました。

その触手は当然ながら州崎にも及んでおり、何枚もの写真を残しています。
「サロン パール」と書かれた丸窓…砂の上に落ちたコンタクトレンズを探すように当時の住宅地図とにらめっこしてみると、実際に「サロン パール」は実在しました。

洲崎遊郭の大賀

洲崎の赤線跡といえば、「大賀」というお店も前回訪問時にはありました。

「大賀」という屋号が当時のまま残ったその姿。当時とほとんど変わらず屋号まで残っているのは、13年前でも相当珍しいものでした。
当時は遊郭・赤線跡探偵も少なかったせいか、ネットでもほとんど情報がなく『赤線跡を歩く』片手に街角を徘徊していましたが、洲崎のカフェー建築といえばこれというフラグシップ的な建物でした。

洲崎遊郭の大賀

黒い豆タイルがいかにもという感がしていました。
1970年代にここに下宿していた人によると、下宿名は「大賀荘」という名前で、四畳半と六畳の部屋がありトイレはもちろん共同。すぐ近くに銭湯があり、下宿の人はそこに通っていたそうです。

これがどれだけ当時と変わらないか。百聞は一見にしかず、下の画像と比べてみましょう。

洲崎遊郭

赤線時代の写真ですが、ほとんど変わってません。
昔の写真の姿のまま、自分の目の前にその建物が健在する…扉から和服姿の女性が、「お兄さんちょっとどう?」って出てきそーな妄想さえ駆り立てられるくらいリアルでした。

なお、現役時代は「大賀」と書いて「タイガー」と読ませたそうです。名付け親のユーモアセンスを感じさせます。

しかし、残念ながらこの「大賀」も現存しません。私の訪問時は選挙事務所として使われており、保存状態も良さそうだったためしばらくは安泰と思っていました。が、2011年の東日本大震災で半壊、同年秋に解体されてしまいました。

なお、Google mapのストリートビュー上で2008年を選択すると、その姿をネット上で確認することができます。

旧洲崎パラダイスの生き残りの建物はこれだけ。しかもすべて現存せず…残念ながら洲崎は「絶滅宣言」せざるを得ない。
…と思っていたのですが、13年の時は私に見えない経験値を積ませていました。図書館で資料をほじくり回していると、いや待てよ…洲崎の赤線時代の建物、まだ残っているのではないか。

私のぼんやりとした仮説は、徐々に確信へと変わっていきました。

これだけではなかった!赤線時代の生き残り

洲崎カフェー組合跡

ここにはかつて、洲崎の赤線カフェー協会(組合)の事務所がありました。
洲崎の赤線組合はなぜか二つあり、ここはそのうちの一つでした。現在は飲み屋が軒を連ねる長屋になっていますが、建物自体はもしかして当時のもの!?知らんけど。

洲崎遊郭の地図

戦後の「洲崎パラダイス」のカフェーは「洲崎半島」の右側のみと述べましたが、左側にも「特殊喫茶店」が2軒のみあったようです。

東京洲崎遊郭跡

ここには、「富貴」と「幸松」という店がありました。当時の建物は現存しません。
なぜここだけ、まるで飛び地のように「半島西部」に存在していたのか。その理由はわかりません。

東京洲崎のカフェー建築

ところ変わって。
「大賀」跡の、南北に貫く道を隔てた隣にはこんな建物が。
13年前は全くスルーしていたのですが、13年間の経験値を下敷きにした直観は今回、これを見逃しませんでした。

筆者
筆者

これは怪しい…

「怪しい」だけで「そうだ」と決めつけず、直観を客観化する作業を欠かさないのも、13年の間に得たスキル。
直観を頭に残しつつ資料をあさってみると、やはり私の直観は当たっていました。

洲崎遊郭のカフェー建築

近くにあるこちらも、リフォームはされていますが、当時の生き残りに間違いありません。

逆に、一部のブログでは「あやしい」とされているけれども、資料を突き合わせるとシロなものも存在します。

洲崎遊郭のカフェー建築

いかにも古そうなこの二つの建物。ぱっと見ではもしかして…と淡い期待を抱いてしまいますが、赤線現役時代の地図によるとここは空地だったので、たぶんシロ。
しかし、地図は昭和28年なのでそれ以降に作られたという可能性もあり、真っ白とは断定できません。

ちなみに、この右隣、現在はマンションになっている部分には「弁天湯」という銭湯が戦前からありました。
遊郭・特飲街のど真ん中にあったので、娼妓や赤線の女たちの御用達だったのでしょう。

東京洲崎のカフェー建築

現在の洲崎ではいちばん目立つ、壁面に生えるトゲのようなものが特徴的な建物。
いかにもと思うでしょうが、位置が「洲崎半島」の西半分、つまり赤線の店がほとんどなかった場所にあります。

洲崎遊郭のカフェー建築

昭和33年(1958)の地図では存在がいまいちなものの、4年後の地図では「寿理容館」が確実に確認できるので、おそらくこの時期に作られたものではないかと思います。

そして、赤線の建物ではないですが、こんな建物も。

洲崎の武蔵屋

酒屋の「武蔵屋」です。昭和28年の地図でも存在が確認できる、洲崎パラダイス時代からの生き残り。くどいようですが、酒屋であり赤線の店ではありません

実は、洲崎の調査はすべて完了!と意気揚々と引き揚げる途中、私の直感がこれを見逃しませんでした。これはもしかして…。しかし、手元の地図を調べてみても「武蔵屋」の文字はなし。なんや気のせいかと写真も撮らず通り過ぎ…いや、念のために一枚撮っていたのですが、価値なしと削除していました。
そして帰宅後、ブログ執筆のために改めて地図を見ると…「武蔵屋」があるではないか!
新幹線の時間が迫って乗り遅れの危機が頭の中でチラついていたせいで、現地で見た地図は1枚分地理がずれていたという、なんだか私らしいオチでした(笑

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