【改修工事完了】旧大社線大社駅舎の現在|重要文化財の廃駅を見学する

大社駅サムネ 歴史探偵千夜一夜

出雲大社へと参道の奥に、かつて参詣客の玄関として栄えた終着駅があります。

平成2年(1990)限りで廃止になった国鉄大社線の終着駅、大社駅

それが、本記事の主役である大社駅。

大正13年(1924年)に建てられたこの駅舎は、出雲大社への玄関として神社の本殿を思わせる木造建築の傑作です。

路線こそ廃止になりましたが、今なおその姿は現役当時のまま残され、国の重要文化財として君臨しております。

本記事では、旧大社線大社駅の駅舎の歴史から現在の姿、そして実際に訪れるためのアクセスや生き方などを解説します。

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旧大社駅とは

旧大社駅は大正元年(1912年)、大社線の開通とともに開業しました。

平成2年(1990)限りで廃止になった大社線の路線図

出雲市から大社まで、かつて大社線という路線が存在していました。全長7.5km、決して長くもない路線で、平成2年(1990)限りで廃止になりました。

最後は要らない子扱いされて消えたこの路線ですが、その昔は出雲大社への参拝客で溢れかえり、全国から参拝臨時列車が発着していた「主要路線」だったのです。
その賑わいの面影が、大社駅舎にあらわれています。

平成2年(1990)限りで廃止になった国鉄大社線の終着駅、大社駅

現在残る大社駅の駅舎は、大正時代の1924年に造られたもので、もちろん出雲大社をモデルにした造りです。
この本屋は、近代建築ではおなじみの車止めを擁した中央棟に、大鳥が翼を広げたような左右対称の構造となっています。
出雲大社への玄関口にふさわしい、堂々とした「和」の神髄です。

遠目で見てもかなり金と技術をかけた建物であることがわかるのですが、間近で見るとその偉容にため息が出ることでしょう。
現役を終えて今年でちょうど30年ですが、大社におけるその存在感は変わっていないと思います。

この駅舎、そもそも大社線の廃止とともに解体される運命にありました。が、ここまでの建物を解体して木の藻屑もくずと化するのはあまりにも惜しい。
当然のことながら保存運動が巻き起こり、保存が決定。平成16年(2004)に重要文化財に指定され現在に至っています。

大社駅の歴史

明治45開業当時の大社駅。国産初のタンク機関車だった230型蒸気機関車が使われた
大社駅の展示物より。明治45年開業当初

大社駅は大正元年(1912年)、大社線の開通とともに開業しました。
大社駅は出雲大社から徒歩20分という、実際に歩くとけっこうの距離にあるのですが、一説によると当時の鉄道院総裁、後藤新平が
「ここに作れ」
と決めたからという伝説が残っています。

大社線は出雲大社への最寄り駅として全国から参拝客が訪れ瞬く間に大繁盛となり、大社駅の易者も早速手狭になり客からのクレームも多くなったと言います。

そこで、全国一二を争う大神社の門前町にふさわしい駅舎をというわけで、

平成2年(1990)限りで廃止になった国鉄大社線の終着駅、大社駅

現在に残るこの駅舎が大正14年(1924)に作られました。
大社駅前には旅館・食堂・土産物店が建ち並び、じきに出雲大社までの参拝道(神門通り)も完成しました。

昭和初期の大社駅
(昭和初期の大社駅(『大社線80年の軌跡』より)

大社駅は昭和に入りますます列車に行き来が多くなり、昭和4~5年頃から全国各地からの団体臨時列車も多くなりました1。年末年始には毎日7~8両編成の列車(1列車約500人)が発着し、出雲大社までの沿道は旅館の看板と幟でカラフルだったと元駅員の回想にあります。

東京や大阪からの直通列車も!

昭和5年の時刻表には既に、大阪や京都発大社行き列車(二等寝台車付き)を確認することができます。

そして昭和10年(1935)からは、大阪発の急行列車も誕生します。急行なんて、もう直通列車があるから今更いいじゃないかと思ってしまいます。

昭和15年時刻表より、山陰本線の時刻表。大阪発大社行き急行
(昭和15年鉄道省編纂時刻表より)

しかし、時刻表を見てみると、やはり急行の存在感は一段階違います。特急はおろか、急行でさえ東海道本線や山陽本線など主要幹線にしかなく、しかも山陰本線初の急行が大社行きだった…出雲の住民が胸熱にならないわけがない。

この列車には、食堂車(和食堂車)も連結されています。

1940年、昭和15年、急行列車の食堂車で働いていた女性たち。大社線80年の軌跡より
(『大社線80年の軌跡』より)

上の時刻表と同年、大社駅で記念撮影する急行食堂車の女性たち。
大陸での戦争の影響が日常生活にも出始めた時期ですが、彼女たちの服装と笑顔からは、そんなものは微塵とも感じません。

戦争で観光どころではなくなった大社駅。しかし休まる時はありませんでした。
次は戦地へ赴く地元の出征兵士の出発が多くなり、その日の大社駅前や通りは混雑を極め、嵐のような万歳三唱の声が駅前広場を占有していたと言います。

戦後の衰退と大社線の廃止

戦争後の混乱で参拝どころではなかった日本でしたが、昭和25年(1950)から参拝客を中心とした客足が戻り始め、大社駅は絶頂期を迎えます。

昭和30年代の大社駅。駅前に並ぶ観光バス
(『大社線80年の軌跡』より)

昭和30年代、その絶頂期当時の写真です。団体客を迎えるバスの数からして、現在からは考えもつかないほどです。東京から急行「いずも」が大社まで直通し、東京と列車一本で直結されたのも、この頃です。

当然、大社駅の営業収支は大黒字、旅客だけでなく、地元特産のブドウを中心とした貨物輸送も好調で、黒字だからけっこうわがままも聞いてくれたと当時の駅長の回想にありました。

旧大社駅竹内まりや

大社駅から新しい旅路へ出発した、ある一人のアーティストが、大社線の思い出を語っています。

「まだ見ぬ土地に対する不安で複雑に揺れ動いていた(中略)私を優しく温かく見守りながら、『元気で行ってらっしゃい』と送り出してくれた大社駅。
ここは私にとってすべての夢の出発点となったわけです。
竹内まりや

引用:『大社線80年の軌跡』

一度聞いたら忘れられないメロディとボイスで我々の耳を魅了する、歌手の竹内まりやさんはここ大社町出身。出雲大社の前にある旅館「竹野屋」の娘であり、現在は歌手業の傍ら実家のオーナーとなっていることは、知っている人は知っていることでしょう。

しかし、大社駅の賑わいはここまででした。

昭和40年代後半より、モータリゼーションの発達と道路事情の改善などで遠距離からバスで出雲大社へ直接訪れる観光客が増え、大社線は斜陽の時代を迎えます。
観光収入(定期券収入を除いた数字)も昭和44年をピークに減少を見せ始め、廃線まで二度と戻ることはありませんでした。

ほぼ独占だった貨物輸送も、国鉄自身のストや親方日の丸による荷主無視の営業が荷主を大激怒させ、鉄道と縁を切りトラック輸送に。
JR貨物が頑張っても客側がなかなか戻らなかったのは、国鉄時代の傲慢さによる荷主の不信感を今だに引きずっているそうで、商売は信用を失うとえらいことになる歴史の実例でもあります。

大社線も昭和50年代後半にはローカル線に転落し、最後は線内を走る列車が単純に往復するだけとなりました。

大社駅に残る廃線前の時刻表

駅には廃線時点の大社駅の時刻表もそのまま残されていますが、一時期は東京・大阪・名古屋から優等列車も発着した「幹線」も、最後は一抹の寂しさを時刻表の中に残したまま無くなることに。

国鉄からJRになる寸前の頃には廃止が決定、JRとして再出発した数年後、大社線は廃線となりました。

大社駅の現在の姿

平成2年(1990)限りで廃止になった国鉄大社線の終着駅、大社駅

それでは、大社駅の現在の姿を見ていきましょう。

旧駅舎内-和のレトロ感溢れる空間

平成2年(1990)限りで廃止になった国鉄大社線の終着駅、大社駅の構内、切符売り場

駅舎正面の入口から入ると、旧切符売り場と真正面で対面となります。天井は能の舞台のようになっており、まるで能か狂言でも披露できそうな形になっています。まさか切符売り場の上で舞うなんてことはないと思いますが(笑

平成2年(1990)限りで廃止になった国鉄大社線の終着駅、大社駅の構内、切符売り場

切符売り場の中には、現役当時使われていた黒電話や駅員の制服などが展示されていますが、細かいところを見ていくと、「東別府」「大分」の文字が…。それも「二等」「三等」っておそらく戦前のものかと。

出雲なのに九州の文字に出会うとは、それだけ全国各地から参拝客が多かったという間接的な証拠と言えます。

旧大社駅新切符売り場

本屋入って左側には、戦後に作られおそらく廃線時まで使われていただろう切符売り場もそのまま残されています。

こちらの上にある行き先の料金表も、東京、大阪、四国、九州まで網羅しています。ここに書かれているということは、そこまで行く人の需要があったということ。

ここまで全国に散らばっているということは、関東から九州まで客が訪れていたということですね。

平成2年(1990)限りで廃止になった国鉄大社線の終着駅、大社駅の構内

当然、膨大な数の乗客をさばくためには、駅舎内広場(コンコース)も広くないとたちまち混乱に陥ってしまいます。大社駅のもかなり余裕のある広さに作られています。

大社駅の旅館の看板。

大社駅の往年の賑わいを思い起こさせるものに、旅館の案内があります。戦後のピーク時は列車が着く度に旅館の幟や旗を掲げた旅館のスタッフが駅に溢れ、時には客の取り合いをして小競り合いになったという話も聞いています。

この中には、竹内まりやさんの実家、「竹野屋」もありますね。

旧大社線大社駅の旧二等待合室
旧大社線大社駅の旧二等待合室

駅舎向かって右側にあるのは、旧二等客待合室です。

以前の日本の列車は、一等・二等・三等の三段階の車両に分かれていました。これを「等級制」といいます。
「等級制」が当たり前だった頃は、待合室も「1等・2等」は別に設置されていました。飛行機でもビジネスやファーストクラスの乗客はVIPルームが使えるのと同じことが、鉄道にあったと思えば結構です。

出雲大社への参拝客も多い駅なので、偉いさんや大社の宮司(千家など)も二等を使用するので、この設備は必須でした。ここは昭和初期まで使われ、現在は昔の国鉄時代の品の陳列室になっています。

ここと逆の正面左側は、皇室などが使用する貴賓室ですが、非公開となっています。

繁栄の時を今に残すホーム

旧大社線大社駅のホーム

大社駅は、2面3線の終端駅で、1面の方に駅舎があるという昔ながらの「国鉄スタイル」な構造になっています。

大社駅の個性が光っているのは駅舎だけでなく、ホームもそう。廃線となった「ローカル線」の割には、ホーム長が異様なほど長いのが特徴ですが、それだけかつては急行や遠方からの臨時列車が発着し、賑わっていたことの間接的な証拠となっています。

ローカル線の駅にしては、ちょっとした威圧感さえ感じることでしょう。

旧大社線大社駅のホーム

旧大社駅の駅舎、ホーム側から見た光景。このアングルの写真がネットにあまり見ず、撮影してみました。反対側から見ても駅の和の神髄を垣間見ることができます。

大社駅ホーム駅名標と駅長室

大社線が廃線となった当時の駅名標がそのまま残されています。
大社線は、JRだった期間が少しだけあるのですが、どうせ廃線だからと駅名標も変えられなかったのでしょう。ここだけまるで時間が止まったかのようです。

旧大社線大社駅のホームに停車中の団体列車留置中(大社線80年の軌跡)
(『大社線80年の軌跡』より)

大社線がまだ現役だった頃、駅に留置中の団体列車とローカル普通列車の図です。
廃線前は駅から出雲大社の方へ数百メートル分、線路が延びていたといいます。
もしかして出雲大社の前まで線路を延長するつもりだったのでは!?と思ったのですが、どうやら貨物列車に野菜(ブドウが名産)を積載するためだったそうです。

大社駅ホーム

上の写真を、できるだけ近いアングルで撮影したのがこれ。線路が撤去されたのは当然のこと、ホームも年月と共に草に埋もれ、島式の方はほとんど見えなくなっています。

参拝客用の団体用改札口

大社駅の往事の賑わいを感じさせるものは、今でも構内やホームのあちこちに残っていますが、中でもこれは圧巻です。

旧大社線大社駅ホーム改札口

駅員が切符を検札するボックスがずらりと並んだこの改札口…これだけの数が必要だったほど、大社駅は栄えていたということです。一時は毎日1~2本の割合で臨時・団体列車が、それこそ線路に軒を連ねるにふさわしく発着していた大社駅。今、そこに列車が発着することは二度とありません。

旧大社駅の水飲み場

その改札口を出ると、水飲み場があります。蛇口が撤去されているので現在は使われていないようですが、黒ずんだタイルは、もしかしてSLの煤煙…なわけないと思いますが、それが駅の盛衰を見守り続けた勲章になっています。

旧大社駅まとめ

・旧大社駅は、大正時代の1924年に建てられた木造建築
・出雲大社への玄関駅として多くの参拝客で賑わった
・かつては東京や大阪からの直通列車も走っていた
・1990年代に大社線は廃止となり、大社駅も廃駅となった
・駅舎は解体の危機もあったが残り、国の重要文化財に指定された
・現在は観光スポットとして見学が可能

旧大社駅は、単なる廃駅ではなく、出雲の近代史を今に伝える貴重な文化財になっています。

旧大社駅のお話、これにて読み終わり。

  1. 『大社の史話第81号 回想の大社線』より ↩︎
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