キャンプ・サカイと謎の引込線の関係

接収されて間もない頃のキャンプ・サカイの航空写真です。
キャンプ・サカイには、写真左側に見える今の生活科学部と理学部、工学部がある所に兵士用の宿舎があり、その他は訓練場やトラックの駐車場などに使われていました。
冒頭で紹介した、杉本町駅から延びる謎の引き込み線は、この頃作られていました。

昭和22年(1947)年発行の地図です。すでに大学は進駐軍に接収されていますが、引き込み線は表記されていません。
この引き込み線がいつ出来たのか、明確な資料が存在します。

「昭和二十二年二月二十五日から、阪和線杉本町停車場で、同停車場接続の連合軍専用側線に発着する車扱貨物の取扱を開始する」
昭和二十二年二月二十五日 運輸大臣 増田甲子七
つまり引き込み線は1947年2月25日から運用開始しますということで、線路も進駐軍のための路線だったということも、この『官報』からわかります。
地図も『官報』記載と同年発行ですが、調査の時には正式に開通していなかったのでしょうか。

航空写真を限界まで拡大してみると、引き込み線に3両編成の列車(?)とおぼしきものが写っています。

阪和線を走っていた進駐軍専用電車です。
進駐軍は全国の状態が良い列車も接収しました。白い帯を塗って他の車両と区別させ、進駐軍専用列車として近距離・遠距離にかかわらず走らせていました。阪和線も沿線に基地が3つ(杉本町・金岡・信太山)も控えている以上、進駐軍専用電車はかなり走っていたと思われます。
戦前は「東洋一の海岸」と呼ばれていた浜寺公園も、連合軍の士官用宿舎の敷地として接収され、キャンプ・サカイまで通勤していたという元将校の回想があります。今の阪和線で言えば、東羽衣→杉本町・天王寺行きの進駐軍電車が定期的に走っていたこともわかっています。
以前に書いた上野芝の高級住宅地の一部も、進駐軍の上級士官家族用として接収され、上野芝からキャンプ・サカイやカナオカまで走っていました。それと同時に、駅前付近には米兵相手の慰安婦、いわゆる「パンパン」も住み基地まで「通勤」していたと、元衆議院議員の西村眞悟氏(上野芝出身)の回想に残っています。
キャンプ・サカイと朝鮮戦争
そんなキャンプ・サカイですが、1950年に起こった朝鮮戦争で状況は一変します。

金網が張られた物々しい雰囲気が、基地だということを物語っていますが、キャンプ・サカイの中は、看板のとおり陸軍の病院として使われることになります。
後ろの建物は、今の1号館でしょう。

こちらも同じ看板なので、上と同じ場所だと思います。ということは、駅の南側の踏切から撮った写真ということになります。

現在の姿はこうなっています。
279th GENERAL HOSPITALという名前になったキャンプ・サカイは、朝鮮戦争の負傷兵を収容する病院となりました。負傷者がどこからどう運ばれてきたのかはわかりませんが、同じく接収されていた伊丹空港か大阪港からここまで、引込線を使って列車で運ばれてきたのでしょう。
また、戦死者をいったんここまで輸送し、ドライアイス詰めにして現在の伊丹空港から空輸したという、当時中で働いていた日本人看護婦の話も残っています。
コメント
私がのぶさんのブログを読むきっかけになった記事をリライトいただいてありがとうございます。
改めて私が持っている資料を見返したのですが、やはり引き込み線を確認することはできなかったので、今回は台風の被害を被ったものとはいえ線路の写真を確認できて感動しました。
進駐軍から返還された1号館等は「まなびや」から大分改修されていたようで、当時の職員も克明に記録していました。
ちなみに、本館地区入って右手にある「旧車庫」は、当時から残る貴重な建物ですので、機会があればご覧になってください。
ときどき読ませてもらってます。
我孫子前にある某高校の校史で、アメリカ兵が遊び(視察?)にやってきた写真がありました。キャンプのご近所だからでしょうね。その縁でアメフト部ができた、とかいうような記述があったかも。そのかわり、校内にあった神社も撤去させられたんですが。
進駐軍専用線ですが、昭和32年発行の地図によると、杉本町駅側からではなく我孫子大橋近くで阪和貨物線から分岐するようになっていたようです。10年後の昭和42年の地図には描かれていないので、この間に廃止されたのだと思います。
検索からこの記事で見つけました。
以前から古い航空写真にある市大の線路らしきものの真実を知りたく思っておりました。
GHQの引き込み線ではと想定はしておりましたが、このブログのおかけで確信を得られただけでなく、多くの知らなかった情報を得ることができました。空中写真以外の写真や、引き込み線とは関係ないものの市大構内の遺構まで知ることができるとは。
読んでいてワクワクしました。本当にありがとうございます。
大阪市大卒業生です。私が学生の頃(今から30年前)は、キャンプサカイ時代のチャペルがありました。毛色の違う木造建築で、確か私が学生当時は保健管理センターだかそんなものだった記憶があります(新入生の時、一度だけ健康診断で行きました)まだ、当時は古い建物も残っていたので、もっとしっかり見ておくべきだったと、このブログを読み後悔しております。まあ、当時は大学生活が楽しくて、それどころではありませんでしたが(笑)そして、杉本町の狭いホーム!私が学生の頃はまだ柵もなかったので、快速が通るときは確かに怖かったですね。
ありがとうございます。