大正レトロあふれる駅舎
100周年の看板で外からは見えなかったですが、駅舎にはステンドグラスも填められています。駅舎内から見ると、その姿を拝むことができます。おそらく開業当時からのものでしょう。
これを見て、ふと思ったことがあります。大正時代ってステンドグラスが付いている駅舎多いよなと。私の故郷の大阪でも、南海電鉄の蛸地蔵駅や高師浜駅(台風でヒビが入り、現在はFRPのレプリカ1)、駅舎保存が決まった諏訪ノ森駅などが有名ですが、いずれも大正時代築の駅舎。
歴史を調べてみると、海外でステンドグラスの製法を学んだ日本人が国産ステンドグラスの製造を開始するのが明治20年代。工房が東京や大阪にできるのが明治末期。そこからステンドグラスが安価になり一般住宅に使用されるのが、1910年代終わりから20年代。白河駅や蛸地蔵駅、高師浜駅など、ステンドグラス付きの駅舎がすべて大正時代築なのと、ステンドグラス史がここで一致しました。
駅舎の中は、特に広くもなく狭くもなくという広さですが、天井が高くなっているせいか、見た目より広く感じます。現在は電車の本数自体が少なくなったせいか、電車が発着する時間帯以外は閑散としていますが、新幹線が開業する前は、24時間絶えず乗客がここで列車を待っていたのでしょう。でも、冬はさすがに寒いだろうなとも思ったり。
駅舎内にはレトロっぽい入口がありました。戦前の1等・2等待合室かなと推測したのですが、かつては駅弁を販売していた伯養軒という会社が運営していたレストランでした。新幹線開業前の列車華やかりし頃は駅弁も販売されており、近くに駅弁製造工場もありました。
現在は、「えきかふぇSHIRAKAWA」という軽食・レストランになっており、500円でランチが食べられます。
駅舎の奥にある建物も、三角屋根が特徴的な木造建築となっています。
写真からは見にくいですが、右側の庇がついた、広いスペースが空いています。白河郊外には皇族用の狩猟区域があったそうなので、皇族用の出入り口なのかと思ったのですが、どうやらかつて白河〜水郡線の磐城棚倉駅を結んでいたバスとの連絡口とのこと。
戦前の一時期、白河から水郡線の駅がある磐城棚倉を結ぶ白棚鉄道という私鉄が走っており、両側を結ぶ唯一の交通機関でした。が、昭和に入り水郡線の開通により経営が悪化。救済措置として昭和13年(1938)に国有化され白棚線となるも、戦争中に不要不急の要らない子扱いされ休止(事実上の廃線)となりました。
戦後は旧鉄道の大部分がバス専用道路となった上でバス路線が開設され、現在もJRバスが走る白棚線として現存しています。
東日本大震災を機にBRT(バス・ラピッド・トランジット。バス高速輸送システム)という、専用道路を利用した快速バスが注目されていますが、BRTを機に、
白棚線って…もしかして日本初のBRTじゃね?
と鉄道マニアのみならずバスマニアにも再評価され、現在その名声(?)は全国に轟いているほど有名なバス路線だそうな。実際にこれに乗った時、私の関西弁に気づいた運転手さんと少し会話をしたのですが、関西からなんて珍しいんちゃいますのん?と聞いたところ、いわく、遠くは佐賀や熊本からこれだけを乗りに来た人もいたそうです。
日本BRTの大きな特徴に、「鉄道と容易に(同じホームで)接続できる」というものがありますが、白棚線はそれを60年前に先取り。それゆえ、「国鉄路線」と同等扱いされており、白河からの接続も容易にできるよう、駅構内で乗り継ぎができるようになっていたそうです。現在も、新白河駅で新幹線に接続するダイヤが組まれているんだとか。
この白棚線も、せっかく地元にいる良い機会。ネタとして面白そうなので後日ブログ記事にしたいと思います。
駅舎からホームへは、実は少し離れています。そのため、駅舎からホームへはこのとおり幅の広い渡り廊下が存在しています。ただの渡り廊下ですが、広めの幅を取っているところが、かつての関東と東北の玄関口だった矜持をしのばせます。それくらいの乗降客数が実際にあったのでしょう。
白河駅ホーム
渡り廊下を歩いて階段を上ると、そこにホームがあります。
かつては乗客で賑わっていただろうその雰囲気は、ホームの長さだけでも感じ取ることができます。現在は2〜4両編成の各駅停車しか停車しないこの駅も、新幹線開通前は中・遠距離列車の発着がありました。
「ひばり」「つばさ」などの特急こそ通過でしたが、その分急行は一部を除いて停車。上の時刻表のとおり、秋田や青森行きの夜行もここに停車、時刻表に時刻が掲載されているので運転停車ではなく客扱いしていたのには驚きです。その分駅員も配置しておかなくてはならないので、事実上の24時間営業だったのでしょう。今では信じられないですね。
待合室も木造のまま残っており、かなりレトロです。駅舎と同じ年齢だと思います。
しかし、「待合室」という看板と禁煙マークさえなければ、大正昭和を舞台にした映画かドラマで間違いなく使えるというほどのレトロっぷりです。
中もご覧のとおり。木のベンチが余計にレトロ感を醸し出しています。白河は東北のいちばん南とは言え、関東関西から見たらめちゃ寒い寒冷地。窓も大きめに採られているのも、暖と陽の光が採れるように設計されたのか。
この待合室を見て思い出したのが、大阪は南海本線の浜寺公園駅。
(写真は浜寺公園駅)
装飾などの派手さ、そして作られた時代こそ違いますが、どこか似通ったところがあるような気がします。余裕があれば実際に現物を見比べてみてね、800kmくらい離れてるけど。
待合室の向こうにもホームは続きます。
白河駅に停車していた急行列車は、だいたい8〜10両。現在は長くても4両の各駅停車しか停車せず、余剰となっているホーム長のいっぱいまで列車が停まっていたのでしょう。屋根なしの部分のホームのコンクリートの間には雑草が生え、時の移り変わりを感じさせます。
白河機関区跡ー駅の賑わいの歴史
白河駅はホームこそ1本しかないのですが、構内はかなり広い。現在は駐車場や広場になっていますが、北側には線路が何本も敷かれており、かつてはここに白河機関区なるものがありました。
白河駅には、機関区の人員だけで約1000人いたと市の資料に書いていましたが、ここまで大きいとさもありなん。職員のための社宅も構内にあり、彼らの家族も含めると駅関係者だけでちょっとした町。駅前もさぞかし賑わっていたのだろうなと。
後日書きますが、白河の遊郭も駅からほぼまっすぐ行った道の末にあり、独身駅員たちは勤務が終わったら、酒と女を求めてそっちに向かってたのかなと、想像が膨らんでいきます。
(白河市まちブログ様より)
駅構内の北側には扇形の機関庫もあり、その大きさから規模も大きく当時は蒸気機関車がひっきりなしに行き来していたものと思われます。上は戦前の機関庫ですが、白河機関区の蒸気機関車の一部は、こちらのブログで見ることができます。
旅客や貨物輸送で栄えた白河駅に大きな転機が訪れたのは、書くまでもなく東北新幹線の開業でした。ご存じのとおり、新幹線はスピード重視のためできるだけ直線的に通すのが原則。白河駅に新幹線を通すには、大きくカーブする必要があります。その結果、磐城西郷というローカル駅が新白河という新幹線の駅に生まれ変わり、名実ともにこちらが白河の玄関口となったのです。
前述のとおり、ローカル電車も新白河駅が起点となり、急行列車も止まっていた白河駅は、ただの途中駅と化し、朝夕のラッシュ時以外は、時間帯によっては駅員すらいなくなった静かな駅となっています。
そんな町の盛者必衰の理を見続けながら、白河の駅舎は去年、100歳の誕生日を迎えました。そして今日も、旧白河市街の今後を静かに見守っています。
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