唯一の行桟の遺構?
川口にある「日本聖公会川口基督教会」(登録有形文化財)です。竣工は大正9年(1920)、「居留地時代の遺構」と書いている人もいますが、既に居留地としての機能を失い、中華街となっていた頃に建てられたものです。
しかし、今回のメインはこれではありません。その向かいにある建物なのです。
教会の向かい側には、こんな香ばしい建物が並んでいました。
川口華商の拠点だった「行桟(ハンサン)」は、2階建てのアパート形式だったと文献にありますが、これはまさにビンゴ。
建物の構造からして大正末期~昭和初期のものなので、川口華商が活躍していた行桟の残骸に違いない。
正式名称はないようですが、これを「川口アパート(仮称)」と名付けましょう。
1948年の航空写真です。位置が変わっていない本田小学校を目安にすると、空襲でけっこうなエリアが焼けていることがわかります。
そんな中、「川口アパート(仮称)」が現在と同じ位置で写っていました。
「川口アパート(仮称)」があったかつての住所は川口町。行桟と仮説を立てると、旧川口町にあった行桟は「公順桟」「永信桟」の二つ。ここのサイトによると「川口アパート」の建築年は大正10年(1921)ですが、「永信桟」の設立は昭和7年なので除外。よって「公順桟」一択となります。
長屋風洋風建築とも言えるこの建物は、現存するだけでも9~10個の玄関があり、行桟と仮定してもかなり大規模だということがわかります。
「公順桟」は店員数30名、抱える華商数40、行桟としては3~4番目の規模の「大行桟」です。「川口アパート」の大きさに収まるでしょう。
「永信桟」は「公順桟」と同住所になっているため、「公順桟」の建物の一部を間借りしていたと推定できます。
この「川口アパート」、今でも個人宅ではなくオフィスとして使われていることからも、見方を変えれば現代に残るただ一つの現役行桟かもしれません。
川口の河畔には…
川口の安治川岸です。ここがかつての居留地の船着場で、今でも上屋(倉庫)が立ち並んでいます。
かつては川岸に、大型船が入れないために小舟のみだったものの、かつては川岸に船が並び貨物の出し入れで賑わっていた時があったのでしょう。
今でも倉庫街として現役といえば現役ではありますが、私が訪問した時は人の気配が全くなく、ただ河口から吹き付ける強い風の音だけが聞こえるだけでした。
その中で、また面白そうな建物を発見。
「三榮工業株式会社」のビルヂングのようです。その場でググってみると、建物の詳細は不明ながら、丸窓+曲線的を使った外観は 昭和初期モダン建築によく見られる特徴を残しています。
ここのHPを覗いて沿革を見てみると、川口に移ったのが昭和44年(1969)。創業自体が戦後なので、おそらく空き家だったこの建築に入ったのでしょう。HPには、
こういう声もあるので、近代建築クラスタのアンテナには引っかかっているのでしょう。しかし詳細は不明とのことで、いつ建てられたのか、設計はどこなのか、そして、三榮工業が入る前はどこの所有だったのかなど、謎は深まるばかり。
いつもなら、三榮工業さんに直接連絡して詳細を聞くのですが、この様子だと知らないよう。
隠れた川口の生き証人?
(写真撮り損ねたので、Google mapのストリートビューから)
川口の対岸にある阿波座には現在、中国総領事館があります。
警察官がところどころに配備され少し物々しい雰囲気ですが、悪さをしなければ向こうから何か言われることはありません。写真も別に構わないのですが、やはり警察が目を光らせている中でカメラを向けることは、本能的に遠慮してしまいます。
それはさておき、なんでこんなとこに領事館があるのか?
領事館がどこにあろうが自由ではないか。言われればそうなのですが、川口のチャイナタウンの歴史を知ると、何故領事館が、川口華商で賑わった地区の対面にあるのか。
これは偶然でしょうか。
中国総領事館もしかして、川口の中華街を知る間接的な証人なのかもしれません。これも中国領事館に聞いてみる手もあるのですが、政治的な問題が絡むこともあるので、腫れ物に触るような怖さもあることは事実です。よって、これは今後のペンディングとしておきましょう。
大阪市産業部貿易課編『事変下の川口華商』(昭和14年)
東出清光著『大阪案内』(昭和11年)
大阪市編『西区史 第二巻』
大阪市編『西区史 第三巻』
西口忠『川口華商の形成』
ブログ『旧川口居留地 – 大阪DEEP案内』