「三商大」に差がついた理由-大阪市大の「赤歴史」
過去の2ちゃんねるに、こういうやり取りがありました。
同じ旧三商なのに一橋、神戸、阪市どうして差がついた
慢心、環境の違い?
>>162
単純に資金力の差
昔は大阪市が金もってたから教授陣も凄かった
一橋と神戸は国立だからな
でも神戸は微妙だがw
大阪市立大学はその昔、一橋大学、神戸大学に並ぶ「大商大」だったのに、なぜランクやブランド価値に差が生まれてしまったのか。こういう問いです。
上の2ちゃんねるの回答は、間違いではないけれど、一面にすぎません。これには大阪商大からの悪しき伝統と、大阪市立大学に移るどさくさが影を落としていると思われます。
「旧三商大」といっても、すべて同じ性格で同じ教育内容というわけではありません。「旧三商大」の性格を解説すると、以下のような感じになります。
東京商科大学(一橋大学)は経済学でも近代経済学や古典経済学の研究がメインで、さらに神戸・大阪と比べて哲学や歴史など人文学系の教養教育にも力を入れ、「経済バカ」にならない視野の広い人材育成がコンセプトでした。左翼組織はあったそうですが、ガッチガチの共産主義者伊藤律が指導していたため、1933年に根こそぎ潰されました。
神戸商業大学(神戸大学経営学部など)はというと、経済学より経営学が中心。今でいうMBA大学院大学的な立ち位置で、起業家養成にシフトしていました。企業経営に右や左のイデオロギーなど入る余地はありません。
ちなみに、「旧三商大」のうち神戸だけが何故、「商業」と名前が違うのかというと、これには「経済学の理屈より実学重視」という意味が込められているのだそうです。
対して我らが大阪商大は、学問の自由、つまりリベラルを貫きすぎたがゆえにマルクス経済学者や、当時の法制度ではヤバい「極左」まで受け容れ、彼らに徐々に侵食されていきました。
大阪商科大学は、学長が急進左派の教授をクビにしてバランスを取ろうとしたものの、それが言論弾圧だと学生たちの反発を呼びました。ついには、「文化研究会」という名の左系組織を作り、堂々と戦争反対・帝国主義反対を唱えるようになりました。
それが特別高等警察(特高)の逆鱗に触れ、教員や学生たち数十人が治安維持法で検挙されました。
それを「大阪商大事件」(詳しくはWikipedia先生参照)と言います。
その後、以前に述べたように校舎の一部が海軍に接収されたなどの苦難がありましたが、終戦で再び戻ることとなりました。
しかし、ある意味戻ってはいけないものも戻ってしまいました。
治安維持法などで投獄されたり、言論を封じられていた左派たちが、大学に戻ってきたのです。ただ戻ってきただけならまだマシ。彼らは以前にも増して凶暴かつ先鋭的になって戻ってきたから大変なことに。
彼らは、大学の骨幹である学則も変えてしまいます。
戦前の学則第一条が、「商業に関する学術」から「政治経済に関する学術」に変更されてしまいます。カリキュラムも必修科目はゼロですべて選択の超自由主義型という、ほぼ大学崩壊のような「改革」を行ってしまいます。
大学は荒れに荒れ、こりゃダメだと大量の教員が大学を去ることとなりました。しかしながら、「去る」と言えば聞こえはいいですが、当時を知る人の回想では追放か、学問から離れた階級闘争に飽き飽きして逃げたという方が正しいようです。
大阪商業大学は新制大阪市立大学になる前には既に、「大阪政治経済大学」と後に揶揄される偽りの看板を背負うこととなりました。
1970年代までの戦後日本は、学生運動が盛んな時期でもあったので、どこの大学でも多少なりに運動はあったと思います。しかし、市大は少し極端すぎたようです。
学問的排他主義を続け、実務的とはかけ離れた不毛のイデオロギー論争や大学紛争に明け暮れ停滞している間、良い意味で戦前からの伝統を守り現実を見失わなかった(学生運動がほとんどなかった)東京・神戸の旧商大に差を開けられた。
当時の学生や、市大を見限って去った先生たちの手記・回顧録を見ていると、そう見て間違いないようです。
大阪市大の学生紛争のすごさを物語る写真があります。
市大のシンボルである本館1号館が、警察と学生の争いでメチャクチャになっています。
時計台に篭って警察とドンパチする光景は、東大の安田講堂のあれを思い浮かべる人が多いですが、市大でも同じことがあったのです。
学生運動が正しかったのか否かは、私ごときが判断できるものではありません。
ただ、これが「市民のための大学」であった市大を、大学といちばん近い存在である市民にそっぽを向かれる結果になりました。
『朝日ジャーナル』で、1960年代後半から70年代にかけ「大学の庭」、「300万人の大学」といった大学に関する連載を行っていました。
その大阪市大のページで市民の声が寄せられていたのですが評判は、「デモだ運動だと、困った連中だ」と最悪の評価でした。大阪市民の目はすでに商大時代のリスペクトではなく、厄介者を見る冷たい目に変化していたのです。市民からはほとんど見捨てられたと言ってもいい。
公認会計士になりたいと商学部の学生が言えば、
お前は資本家の犬になるのか!
と怒鳴る学部長がいる大学ではさもありなん。
左傾化に嫌気がさして大学を去った先生たちを受け入れたのが、主に関西学院大学商学部でした。
関西学院大学は、1951年の新制大学への移行で商学部が経済学部から分離し、実務志向の研究者を求めていました。そこへ大阪商大から逃げてきた亡命研究者を大量に受け入れ、新しい商学部を作っていくことになりました。
そのうちの一人に、久保芳和という人がいました。彼はかなり優秀な学者だったのですが、
久保は仕事は出来るが思想が良くない
などと意味不明の理由で左系学者に牛耳られた大学から干され、アホらしくなり関西学院大学に「亡命」した一人。関学に移ると同時に助教授に昇進、のちに学長になりました。
彼によると、戦後間もなく「シベリア天皇」というあだ名の、その名の通りシベリア帰りの極左教授が商大に復帰、正統派の教授を工作で追放し、主任の座を奪いました。その権力を使い商大の「クリーニング」を始め、「大物はすべて去り、残るは小物一人のみ」となったそうです。そんな空っぽ状態で新制大阪市立大学がスタートしてしまいます。
戦時中、商大事件などで大学を追い出されたことを「レッド・パージだ」と強く批判するのはいいが、そんな自分らは同調しない人間のすべてを否定し、様々なレッテルを張って排除するダブスタっておかしくね?と久保は述べていますが、なんだか今のどっかの政治家集団によく似てますね~(笑
結局、久保も上の理由で「辞職するまで干され続けるの刑」を食らい事実上市大を追い出され、学問の師匠の誘いで、上述のとおり1951年(昭和26年)関学に「亡命」することとなります。
旧制大阪商科大学の正統なDNAは市大ではなく、関西学院大学(商学部)が受け継いでいる。このgdgdの歴史を知る人には、そう言う人もいるそうです。
市大は公式史を編纂しているのですが、公式史である『大阪市立大学百年史』は、商大から市大への「左旋風」を擁護しているフシがあります。1980年代発刊なので仕方ない面もあります。
が、2008年から発行されている『大阪市立大学史紀要』では、マルクス主義の呪縛が解け正気になったのか、古き良き商大の原点に回帰しようとしたのか、客観的に批判するアカデミックな姿勢があらわれています。上の久保の手記も、当時の大学史料室長の論文として『紀要』に記載のものですが、今でも真っ赤っ赤ならこんなもの書けません。
ただ、ただ、「もうかりまっか」が信条の、お金にうるさい分現実主義の大阪の大学が、何故マル経ことマルクス経済学が受け容れられたのか。何故ここまで舵を左に切りすぎたのか。これにはもっと客観的にメスを入れるべきだと思います。
そういう意味では、戦後の市大史は「黒歴史」ではなく「赤歴史」と言ってもいいかもしれません。
コメント
ど真ん中のテーマをこれほど詳細に書いていただきありがとうございます。繰り返し何度も読ませていただきました。
大学の歴史というところでいくと、杉本キャンパス北側にあった「杉本寮」と、建物自体は現存している「志全寮」の歴史もまた、冊子にまとめられていますのでよろしければご一読ください。
様々な歴史が刻まれたキャンパスですので、今度お越しになる際は是非ご案内いたします。