大阪市立大学秘史 その2-商科大学から市民大学へ

大阪市立大学の歴史近代建築 歴史探偵千夜一夜
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戦後の大阪市立大学の始まりは「亡命先」で…

大阪市大(公立大)は戦後10年間、アメリカ軍に大学まるごと接収されてしまいます。
その時の杉本キャンパスは、以下の記事で説明しています。

その時の商大はどうなったのか。
結論から述べると、家を追い出されてしまった大学は市内各地の学校を間借りする居候生活を余儀なくされます。

実は大阪商大から新制大阪市立大学に移行する時も、杉本町ではなく、「亡命中」に「亡命先」校舎で引き継ぎが行われました。

その時、現在の理学部・工学部・生活科学部・医学部の母体の学校を合併し、法文・経済・商・理工・家政学部で新制市立大学がスタートします。

■理学部・工学部:
明治40年(1907)創立の市立工業学校(のち市立都島高等工業学校)
■生活科学部:
大正10年(1921)創立の市立西華女学校(市立女子専門学校)

これで現在の市大への土台が作られ、戦前からの念願だった総合大学へ・・・と聞こえは良いものの、如何せん実家が進駐軍にボッシュートされている状態。

仕方ないので各学部とも元の学校の校舎で開講となる、いわゆる「タコ足大学」となりました。

大阪市立大学「タコ足」キャンパス

法文・経済・商学部と大学事務局
:心斎橋の旧道仁小学校→旧靭(うつぼ)商業学校
旧商大・予科・高商科と図書館
:西区の旧靭(うつぼ)商業学校(新制市立大学後は廃止)
理工学部
:北野国民学校(現北税務署)
家政学部
:西長堀の旧西華女学校(現西区民センター)
医学部
:扇町

字で書くとピンとこないので、地図に落とし込んでみました。

大阪市立大学の歴史

こうして見ると、いかにバラバラになっていたかがわかります。

これがどれだけ不便かというと、例えば理工学部の人が何かの理由で大学のハンコをもらわないといけない時、わざわざ靭公園近くまで行かないといけない。図書館で本を借りようと思えば、わざわざ靭公園まで行く必要がある。
電車代だけでもバカになりませんが、その図書館もこんな状態に。

大阪市立大学の歴史

今のように、FAXでピピピと、メールでPDFをホイと送れる時代ならどうということはないですが、この時代なら学生の苦労も甚だしいものに。
もう無茶苦茶でござりますがな(by花菱アチャコ)

大阪市立大学の歴史

その「亡命先」の一つ、市内中心部の「靱(うつぼ)」校舎の一部ですが、敷地に民家が食い込んでいる状態で運動もロクにできませんでした。

無理矢理やろうとしても、ボールがしょっちゅう民家や学長室のガラスを突き破り、お茶を飲んでいた学長の頭に当たるという、二流ギャグ漫画のような展開が何度もあったそうです。

文系各部はまだよかったものの、理系学部の実習は小学生でも50人がやっとの教室に、大学生100人以上が詰め込まれる、人口密度どんなけやねんという状態でした。

当時の様子はこう記されています。

「教室も学童の1クラス50名程度の広さのものばかりで、受講者の数に対応できる体勢がなく、大学の教育施設としては大きな欠陥を持っていた。
スポーツ・更正施設も皆無に等しく、体育の授業は家政学部の運動場を利用するため、各所から出なければいけない始末であった。

他大学が新制大学としてスタートしてから着々と整備されていくのに、大阪市立大学はその本拠を奪われ、借り物の小学校では恒久的な施設の建設は全く不可能であった。
このため、せっかく全国から集められた優秀な研究者たちも、研究は古巣の阪大や京大なりで行って講義にだけ(市大に)出かけてくる人も多く、理工学部などではあまりの悪条件のために流出していったケースも少なくなかった」

『大阪市立大学百年史 全学編』

学生以前に先生が、

こんな大学で仕事なんてイヤだ〜!

と逃げ出してしまうほどの劣悪な環境だったのです。
戦後すぐのこの時代が、大阪市立大学最大の苦難の時代でした。「住所不定時代」と言ってもいいでしょう。

当然、ボッシュート中の杉本町キャンパスを返せと、返還運動が起こるのは自然の流れ。教員や学生が市と掛け合い、国やGHQと交渉しますが、答えはノーでした。
それでも昭和27年(1952)に、粘り強い交渉の結果、今の1号館がある敷地の、1号館・図書館・研究棟だけが返還されます。GHQが「急に気が変わって」接収されてしまった場所です。

それまでは、大学と基地が同じ敷地内にあるという珍現象が起こっていました。
米軍の基地の中に大学があったと言った方が正しい描写かもしれません。米兵と学生の距離が近すぎてトラブルも続発し、女子学生が護身用と、貞操を奪われた時の自決用にナイフをバッグに忍ばせていたというエピソードもあります。

大阪市立大学全面返還式、昭和30年
大学の全面返還式(1955年)

大学が全面返還されるまでにはさらに数年かかり、全面返還されるのは昭和30年のことでした

この流浪時代に大学を卒業したOBは、「大阪商大」「大阪市立大学」卒なのに杉本キャンパスと全く縁がありませんでした。市大の顔である杉本キャンパスを見ても自分の大学だという愛着がなく、同窓会に出席しても杉本町経験者と何か壁がある「ロスト市大世代」だと述べています。

木偶坊伯西
木偶坊伯西

お次は、なぜ!?大阪市大の黒歴史ならぬ「赤歴史」!!

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コメント

  1. kome より:

    ど真ん中のテーマをこれほど詳細に書いていただきありがとうございます。繰り返し何度も読ませていただきました。
    大学の歴史というところでいくと、杉本キャンパス北側にあった「杉本寮」と、建物自体は現存している「志全寮」の歴史もまた、冊子にまとめられていますのでよろしければご一読ください。
    様々な歴史が刻まれたキャンパスですので、今度お越しになる際は是非ご案内いたします。

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