京大はどうして「変」なのか
京大はネームバリューこそあれど、その割には関西出身の学生が多く、アンサイクロペディアには「関西地方最強最大のローカル大学」と皮肉られています。
しかし、2022年の出身校別京大合格者ランキングを見ると、ほとんどが関西の高校なのでまんざらでもない。。。か。
それだけ関西ローカル色が濃いと、やはり京大の文化も好き嫌いにかかわらず関西色にならざるを得ない。そんな関西文化から見える京大の「変」さとは。
①いちびり精神
「いちびる」という関西弁があります。おそらく関西以外では全く通用しない関西弁の一つですが、意味は以下の通り。
①ふざけた行動をする
②周囲の出来事に面白味を(無理矢理にでも)見出し、それに対してはしゃぎを愉しむ
「ぶぶ漬けでもどうどす?」でお馴染みの、京都のオブラート…ではなく生八ツ橋にくるんだエグい皮肉に、大阪人のボケとツッコミ。関西は「いちびり文化」の聖地であります。
「いちびり精神」には2つの効用があります。
一つは、「角が立ったものを丸くする」こと。もう一つは「権力・権威を嗤(わら)いとばす」こと。京大の名物に「立て看板」がありますが、これこそ「いちびり精神」の結晶だと思えるような看板が入試当日にあらわれます。
完全に受験生をいちびって(煽って)いますが、ストレートに角を立てるのではなく、アニメなどの媒体をパロって角をなくしているところが関西風味です。
こんな看板でけしからんと青筋立ててる奴は東大にでも行ってなという、京大生の高笑いさえ聞こえてきます。
栄光の折田先生像
京大の「いちびり精神」の中で最も有名なのが、「折田先生像」です。
折田彦市(1849-1920)は、旧制第三高等学校の校長を30年勤め、当局の圧力に負けず「自由」の学風を築いた人としてその名を残してます。その栄誉を讃え、昭和15年(1941)に「折田先生像」が校内に作られました。しかし、戦争の金属供出で撤去され、戦後に再び作られ京都大学となった後も健在でした。
しかし、いつからかオブジェが格好の「創作」の材料となり、様々な「作品」が出来上がりました。
顔を赤く塗られたり、
司馬遼太郎になったり、
果てはウルトラマンゼアスになったり。
あまりにひどいので大学側は像を撤去したのですが1、それは「折田先生像」伝説の始まりに過ぎませんでした。むしろ、大学側はそれを見越して撤去したのではないかとさえ思ってしまいます。
その翌年の入試当日、「折田先生像」のあった場所にあるオブジェが出現しました。
折田先生がマッチョなラオウとなって「復活」しました。
その後も、
Mr.コンタックや、
キョロちゃんなど。
毎年様々な格好であらわれ、受験生及び部外者を涙と爆笑の渦に巻き込んでいる「折田先生像」は、すっかり京大入試の風物詩になっています。
ちなみに、2020年は「スーパーひとし君人形」でした。
このオブジェ、誰が制作しているのか謎という京大ミステリーなのですが、大学は怒らないのでしょうか。
答えは否。大学が公式に、
見守っております。
と声明を出してOK。その上で、「誰のものであれ創作物を壊すという行為は、最も悪質で下劣で野蛮な行為です」と援護射撃までしています。さすがは京大クオリティー。
さらに、折田先生の子孫も、一族郎党みんな知っているという前提で、
ここまで続けば文化。大学が微妙な形で許容しているのが自由な気風
いいんじゃないですかと全くの許容。さすがは子孫。
しかし、毎年羽目を外したお祭りぶりに、今年はついに「当局」からの「警告」が。
今までどんな「折田先生像」があったのかのアーカイブについては、まとめサイトもありますが、本物も含めてここをご覧ください。
②ユーモア
ユーモアは心の余裕から始まります。
「世界が滅んでも生き残るため、京大生よ変人たれ。酒井教授が語る、カオスに立ち向かうための『京大の役割』」というコラムで、総合人間科学部の酒井教授は「高校の試験は100点を取るためだが、大学の試験は60点でいい」と述べています。残り40点は、「アホなことをやれ」と。
酒井教授本人も京大に入って初っ端に、
教養部の2年間はアホなことをしろ
と言われ面食らったそうで、この「アホやっとけ」が京大のいう自由であり文化であり憲法なのだと。
私なりに解釈すると、40点分の「アホ」は「心の空きメモリ」を作れということですが、「心の空きメモリ」は「心の余裕」を指します。4割も余裕があれば、ユーモアの一つや2つ、簡単に生まれます。
大日本帝国海軍は、「ユーモア」を「新入社員心得」に入れた日本史上唯一の組織ですが、そのこころは「心の余裕あります」。
貴様ら、アングル・バーではダメだぞ、フレキシブル・ワイヤーでなくてはいかん
初級士官は、先輩や教官から耳にタコができるほど言われたそうですが、これってフレキシブル・ワイヤーのように物事に柔軟に対処できる、「頭の空きメモリ」を作っておけということなのです。
もっとも、海軍史を俯瞰すると、硬すぎて曲げることができないアンクル・バーな海軍軍人、阿川弘之の言葉を借りれば「陸式海軍軍人」が増えていった時から、海軍の滅亡は始まっていました。
京大ユーモアの個人的傑作が、入試当日にあらわれたこのオブジェ。
このひねりの意味がわかれば、あなたは相当頭が柔らかい。偏差値70級のユーモアです。
この「アホなことをやれ」、京大卒でもないのですが、すごくわかります。
私は遊び呆けすぎて大学受験に失敗、落武者と言われても文句が言えない有様で中国へ渡りましたが、授業に出たのは最初のうちだけ、基礎の中国語を身に着けたらこっちのもの、あとは「書を捨てよ、街へ出よ」。
町中の見知らぬ中国人と一日中麻雀をやっていたり、ちょんまげのカツラをかぶって中国から香港へ入り香港の入境審査の人を笑わせたり、本当にバナナで釘が打てるのかと上海で買ったバナナを真冬の旧満洲まで持っていき、本当に釘を打ちに行ったり…それこそ「アホなことばっかり」やっていました。というか、アホなこと以外をやった記憶があまりない。
しかし、こんなものは若いうちにしか出来ないことです。今の年齢でやる勇気、それ以前に体力と気力がありません。若いうちの「アホなことをやれ」は、必ず経験値として還ってきます。
③自由”放牧”主義
「総長カレー」という、変な京大名物を生み出した尾池和夫元総長が、こんな言葉を残しています。
「京都大学は放任主義と言われますが、放任ではございません。放牧です」
自由”放任”だと、エネルギーが有り余っている学生がどこへ行くのかわからない。それ以前に、学生が本当に路頭に迷ってしまう。
実は大学も、知らんふりしつつも学生を導く「餌」は撒いているようです。無軌道な学生がヘンな方向へ行かないように、柵も作っている。
ただし、京大はその柵が破れていることが多いそうですが。
「餌」に気づくか気づかないかは学生次第、気づいても食うか食わないかは学生次第。ただし、餓死しない程度に食えよとアイコンタクトは取っている。言葉や行動では決して促さない。
学生たちは自由に草を食いながらも、ほったらかしにされていると危機感を持ちます。人間にとっていちばんの苦痛は、「無視されている(≒ほったらかしにされている)」ことだったりします。
そうなると、自分は一体何やってんだと内省し、やりたい道を必死に見つけ出す。それが見つけることができれば、先生が何も言わなくても学生は勝手に進んでいく。道に迷った時だけ、教授室の扉をノックすればいい。
だから放任ではなく、大学という広い牧場で「放牧中」なのだと。
自由放牧主義と関西イズム
この自由放牧主義には、ちょっとした歴史があります。
江戸時代、江戸に比べて京都と大坂は武士の割合が少なく、大坂は江戸時代を通して人口の1~2%前後でした。
町の運営は町人たちに任され、武士は口を出さないのが不文律、大坂は行政がまるごとアウトソーシングされているというわけですわな。
それだけに、俺様は武士だと少しでも上から目線でものを言おうものなら、口さがない大坂の町人に「いちびられ」、ネタにされていました。
それどころか、武士の方がどんどん町人と同化していきました。
1万円札の福沢諭吉は、お札になっていることもあって、堅物の聖人君子というイメージがあります。
ところが、実際のキャラは町人、いや今の大阪人とあまり変わらない。しゃべる言葉も大坂弁でした。慶應義塾の卒業生によると、死ぬまで関西訛りが抜けなかったそうです。ちなみに、「大坂弁」と言っても現在テレビでお笑い芸人が使うようなあれではなく、「船場言葉」という元祖大阪弁です。
これは京都も同じ。お公家さんのメッカということもありますが、やはり町人が町の自治を仕切っていました。
学校の日本史では、京都の自治をあらわす「町衆」という言葉が出てきますが、それが江戸時代に発展解消され、「町組」が出来ました。この区分は明治時代初期にマイナーチェンジし、小学校の学区のエリアとして残ったそうですが、町の細かい運営はアウトソーシングされていたわけですね。
この2つの自治都市は、ある共通点を生み出しました。それが「自由」。
江戸時代の京都と大坂は、「学問自由都市」の顔も持っており、寺子屋のような実用一点張りではない、今で言えば大学もどきのような学校が多数作られました。
1万円札によると、江戸晩期は「蘭学は大坂だよね」がトレンド。江戸の蘭学は、上方に比べると数段レベルが低かったと述べています。
「蘭学」というと、解説書には難しいことを書いていますが、要は理系全般+知識吸収用外国語(オランダ語)のこと。適塾は、今の学校制度なら理系科目に全振りした教養学部や、東京理科大学に近い。
ただし、当然「学部・学科」どころか教授も存在しないので、各々興味のベクトルに応じて勝手に勉強せいが当時の塾スタイル。
特に適塾はそれが徹底しており、入った途端に草原の真ん中に放り出され、放牧されます。
福沢諭吉は、適塾時代をこう述べています。
「塾生は立身出世を求めたり勉強しながら始終わが身の行く末を案じるのではなく、純粋に学問修業に努め、物事のすべてに通じる理解力と判断力をもつことを養った」
『福翁自伝』より
これって、明治時代の京都帝国大学の建学コンセプトに非常によく似ています。
江戸時代の上方は、行政から学問まで「自由放牧」。その血は近代になっても引き続き残っていたと思います。しかし、気づいたら管理社会となり周囲には消え、京大にだけ残っていた。それが「なんだか変な大学だな」と見られているのだろうと。
京大のような完全フリーダムな世界だと、各々やることが違ってきます。学生の数だけベクトルが違うし、自然にまかせていれば勝手にそうなる。
すると、多種多様な価値観が生まれてきます。価値観は自分だけの宇宙。学生の数だけ「宇宙(コスモ)」があります。夢に向かって一心不乱に勉強する「宇宙」もあり、授業をほっぽり出して世界中を放浪する「宇宙」もある。
京大は、それぞれの「宇宙」を認め、許容する器を身につける自由牧場でもあるのだろう、私はそう思います。
おわりに
世間を斜めに構えて嗤う「いちびり精神」、「アホ」を奨励する空気、さらに「アホになるかならないかはあんた次第」という自由。
京大の「変」の校風は、これら3つが時間をかけ融合した結果ではないでしょうか。
「社会」を「みんなと同じことに安心すること」と定義すれば、「変人道」を邁進している京大は社会に真っ向から逆らっている「社会不適合者生産工場」。
しかしながら、京大ならではの変人は最近はめっきり少なくなったらしく、ついに大学が危機感を持ち始め「京大生よ、立派な変人たれ」を提唱しだしたほど。
偏差値だ難易度が、就職率が東大がという蝸牛角上の争いではなく、もっと上のステージ、そう、変人が変人として過ごせる文化的な器を、京大は持っているのでしょう。もし私がそんな大学に入っていれば、また人生観が変わっていたかもしれない。
もっとも、お前にそんな頭があるのかと問われると、あまり良い返答はできません。