岸和田花街の話(大阪府岸和田市)|遊郭・赤線跡をゆく番外編|

大阪府岸和田市なった遊郭花街関西地方の遊郭・赤線跡

「ふるさと岸和田」という、岸和田で生まれ育った著者が、戦前~戦中~戦後~現代の岸和田の思い出を語るエッセイ集があります。
岸和田市立図書館の書庫の奥底で静かな眠りについている本なのですが、そこにはかつて岸和田にあった「花街」のことが記されていました。
今日は、記録にはまとまって残ってはいないものの、記憶には残っている幻の「岸和田花街」の話です。

岸和田は大坂(大阪ね)と和歌山を結ぶ紀州街道が通る岸和田藩の城下町で、交通の要衝から代々譜代大名が治めていました。
昔から人々が集まる要素はあったものの、藩命で城下町に遊廊を作るのは禁止。その代りとして、貝塚に遊廊が出来て昭和の売春防止法まで栄えていたというわけです。

岸和田の花街がいつから発生したのかは、資料がなく明らかになっていません。
おそらく岸和田藩時代からあったと思われますが、いちばん古い記録は、『岸和田市史 第八巻』内にある明治45(1912)年の『岸和田市町在住者職業別一覧』に、芸妓置屋6、芸妓93人、料理屋18軒、旅館3軒という数字があり、この頃にはすでに芸者がいたことがわかります。

場所は、当時の堺町・大北町・魚屋町を中心に固まって存在していました。

花街と遊郭は似て非なるものであります。
花街は「置屋・料理屋・待合」の三位一体で、法的には「三業地」と言います。たまに料理屋が待合を兼ねることがあり、そこは「二業地」と呼ばれます。

置屋は花街の芸能プロダクションのようなもので、芸者は基本的には必ず置屋のどこかに所属しています。
料理屋は料亭ともいい、基本的に料理を作り食べる場所。客が芸者のリクエストがあると、置屋からコンパニオンこと芸者が派遣され、待合で落ち合って芸者遊びを行います。京都の祇園では、待合を「お茶屋」と言います。

大阪の風俗街今里新地も、これと同じシステムを採用しています。飛田や松島のように、お店に女の子がいるのではなく、「お茶屋」のお店に客が入り、好みの女の子をリクエストして「置屋」から女の子がチョイスされるのが今里。これって、今里新地が元は花街(二業地)だった名残だったりします。
関係ないですが、信太山新地も全く同じシステムを採っています。

近代の岸和田は、紡績業で大いに栄えました。泉州=タオルというイメージがある人も多いと思いますが、一時は日本のタオルの9割を岸和田を中心とした泉州地域産が占めていました。
それでお金を持ったタオル成金たちの羽振りが良くなり、大挙して芸者遊びにふけっていた風景が容易に想像できます。

もちろん、花街と遊郭の違いは「身体を売るか否か」が大きな違いなのですが、実際は「不見転みずてん」という身体を売る芸者も少なからず存在していました。
待合には男と女が寝る用の別室が在るのが暗黙の了解で、芸妓に抜き打ち性病検査をさせたら、2割がアウトだったという目も当てられないこともありました。

これじゃあ遊郭と変わらんやん!

そう、実態は遊郭と変わらないところもあった・・・・・・・のです。

もちろん、岸和田がそういう場所だったとは限りません。そんな闇は公の資料には出てこないですし。

閑話休題。

次に記録が出てくるのは、昭和3年(1928)の『岸和田市商工名鑑』で、そこに記載されている、上述した町にあった店の数を調べてみると、芸妓置屋10軒、料理屋18軒、待合2軒とあり、明治時代とさほど規模は変わっていないようです。

岸和田の花街は、『大阪府統計書』にも名前が出てきます。それによると

昭和9年(1934)  芸妓置屋41軒 芸妓123人
昭和10年(1935) 芸妓置屋41軒 芸妓130人
昭和11年(1936) 芸妓置屋41軒 芸妓136人
昭和12年(1937) 芸妓置屋41軒 芸妓149人
昭和13年(1938) 芸妓置屋41軒 芸妓112人
昭和14年(1939) 芸妓置屋24軒 芸妓118人
昭和15年(1940) 芸妓置屋27軒 芸妓104人

となっており、数字から見る岸和田花街の最盛期は昭和12年(1937)、「ふるさと岸和田」に書いとる最盛期の昭和13年とほぼ一致。

芸者遊びってかなり金を浪費する贅沢でもあります。日本が戦争へと向かいその影響が生活に影を落とし始めた頃、芸者遊びも「贅沢は敵だ」の対象に入り、その影響が昭和13年から15年にかけて数字で見え隠れするような気がします。
そして、そのまま戦争に入ると芸者遊びなんておおっぴらには出来なくなり、岸和田花街はいったん休業になったと思われます。

そして戦後、芸者遊び自体がオワコンとなり全国の花街が消えていきましたが、岸和田花街もその例に漏れず、戦後すぐには衰退していったようです。

岸和田市の図書館に残るいちばん古い住宅地図(昭和33年)を見ても、堺町や大北町などにあった花街の姿はまばらとなっていました。『ふるさと岸和田』でも、昭和40年代にはそこそこ残っていたとありますが、昭和60年(1985)にはほとんど姿を消してしまったとあります。
その確認のため昭和50年(1975)の住宅地図を見てみると、やはりほとんど残っておらず、昭和60年(1985)には一軒も残っていません。『ふるさと岸和田』の記述は間違いではなく、岸和田花街は昭和50年代に滅亡したと言って良いでしょう。

筆者
筆者

お次は、実際に岸和田の花街跡を歩いてみました。

そこで発見したものとは!?

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