北港潮湯の最期
昭和9年9月21日、やつが大阪を訪れます。
(Wikipediaより)
瞬間最大風速60m/s1、最低気圧911ヘクトパスカル2の化け物台風、室戸台風が大阪を直撃しました。2019年に東日本を襲った台風は、気圧はこの室戸台風に匹敵するものでしたが、勢いは室戸台風はそれよりまたレベルが一つ上でした。
(『大阪港のあゆみ』より)
60m/sの強風と共に4mを越える高潮が大阪港を直撃し、大阪湾沿いの建物はことごとく壊滅しました。四天王寺の五重塔も、この台風で全壊しています。
上の写真は、高潮によって崩壊した桜島の大クレーンと、運天丸(約1000トン)が座礁したものです。
北港の海沿いにあった北港潮湯も水の壁のような高波をまともに浴びてしまい、施設は崩壊しました。
(大阪市立図書館デジタルアーカイブ所蔵)
この通り、高潮に呑まれて無残な姿に。
写真の説明にも、
「昭和九年九月廿一日 桜じま北港潮湯前 水勢最も甚だしかりし所 四五十軒の家屋の全部何物も残さず 六七十人の死者を出せしと云」
とあり、北港潮湯の周りには民家がそこそこあったとのことですが、それもすべて破壊されてしまったと。
北港潮湯がその後復活することはなく、現在では郷土史の一部にその名が刻まれているのみとなっています。
北港潮湯の跡を歩く
今でこそ桜島はUSJのお膝元としてここだけアメリカンな雰囲気を醸し出していますが、その前、特に戦前は住友金属などの大工場群が桜島線沿線に建ち並ぶ一大工業地帯でした。当時は西成線と呼ばれていた桜島線も、特に昭和10年代になると朝夕はホームでの積み残しが発生するほどのラッシュとなり、あの安治川駅脱線火災事故の遠因ともなりました。
で、その工場群が消えた空き地に出来たのが、かのUSJというわけなのです。
現在はUSJとメーカーの倉庫群となっているそんな場所に、現在のスーパー銭湯的存在の潮湯などあったのか?現在の姿を見ると、私も一抹の疑問を持ちます。
昭和23年の地図を見ても、北港潮湯があった場所は、「何かの建物」があった跡は見受けられるものの、それが潮湯の建物跡なのか、それ以後に建てられ空襲で焼けた工場なのかは、航空写真では全く見当がつきません。
北港潮湯があったとされる場所は現在、このとおりとなっています。
無機質な、何の飾りっ気もないコンクリートの更地は、北港潮湯の痕跡をかき消すかのように地面に横たわり、私の発見を拒むかのようでした。せめて碑の一つでも作ってくれたらまだわかりやすいものの、それすらありません。
たった10年間しか存在しなかった幻のスーパー銭湯でしたが、その跡はコンクリートの塊のみ。その下に、もしかして当時の遺構が眠っているかもしれない…そんな妄想を繰り広げながら今回のお話を終わります。
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