関西経済界の雄、山岡順太郎列伝
山岡順太郎、写真だけ見るとゴリラか組長のような風貌をしています。が、実はこの人は関西経済史に大きな足跡を残した傑物。なぜ今まで知らなかったのだろう…と頭を丸めて反省したいくらいの人物なのです。
山岡順太郎は、まだ慶応2年(1866)、幕末風雲急を告げる時代の前田藩の城下町、金沢に生まれます。苗字が同じことでお察しのとおり、順太郎は美章、本名彌五郎の息子です。
父は鉄砲組の組頭で、経済などには無頓着な親分肌の人物であったと伝えられています。それ故に家計は火の車で、母美津子1は家計のやりくりに苦労したそうです。
幼い頃の順太郎は、勉強よりも狩りが好きなアウトドア派で、川の近くに住んでいたため泳ぎも得意。同郷の三宅雪嶺(哲学者)が、わんぱく盛りだった幼い時の順太郎を見たことがあると記しています2。
順太郎は明治という価値観が180度変わった世の中で大志を抱き、金沢を出て名古屋・四日市・横浜を経由して東京へ出て、儒学者の門を叩き門下生となりました。
父美章が亡くなったのは、彼が東京に着いて師匠から入門を許された直後、順太郎18歳(満17歳)のことでした。父の死を東京で受け取った彼は、3日間食事が喉を通らなかったと伝記は記しています。
順太郎はのちに役人となりますが辞め、大阪商船3に入社します。そこでめきめきと頭角をあらわし、最後は社長として大阪商船を三菱の日本郵船と並ぶ日本海運の雄に育てました。
それだけでなく、これからは電気の時代だと電力事業にも乗り出し、現在の関西電力の母体の一つ、宇治川電気や日本電力の社長として辣腕を振るいました。
その功績から、大正6年から10年まで大阪商工会議所の会頭にも就任していました。
関大中興の祖
順太郎はまた、教育者としてもある大学に名を残しています。
大正9年(1920)に大学の評議員(現在の理事)に推薦され経営に参加、3年後には総理事(今の理事長)兼学長として大学令による大学昇格に貢献しました。
その大学とは、現在の関西大学。
順太郎が関西大学に遺した最大のものは、現在でも関大の本拠地である千里山キャンパスの獲得。詳細は省略しますが、順太郎が手持ちの資金を大学に投じて千里山の敷地を確保、晴れて大学の基準を満たして昇格を果たし、現在の関大の基礎を築いたという経緯です。
順太郎は関大では「大学中興の祖」と呼ばれ、キャンパスには銅像も建てられています。本記事を読んでいる関西大学OBや関係者、現役学生の方、知ってました?
ここまでは、美章園や「美章土地株式会社」とは何の関係もありません。が、ここでようやく片鱗が出てきます。
順太郎は関大の理事に就任した同年、「大阪住宅経営株式会社」を設立し、現在の千里山を現在の阪急千里線の前身である北大阪電鉄と組んで住宅地として開発を行いました。
大阪住宅経営株式会社は、そもそも順太郎自身が金儲けのためではなく、「サラリーマンの住宅難解消」という、戦後の住宅公団(現UR)や公営住宅のようなビジョンだったせいもあって、昭和3年(1928)に目的は果たしたと解散、会社ごと新京阪電鉄(=おけいはんこと京阪電鉄)に引き継がれることとなりました。
また、順太郎は大阪市内の住宅開発にも着手しています。「中級サラリーマンにも持ち家を」をモットーに、大正10年(1921)東成郡田辺町大字松原に住宅地を造営しました。そこは地名から「松原住宅」と名付けられ、町の中心にロータリーが設けられ住宅が180戸ほど造られました。
松原住宅は現在の東住吉区山坂となっており、阪和線鶴ヶ丘駅の近くにある街区となっています。しかし、造営された当時は阪和線や地下鉄などありもせず、ロータリーまで天王寺までのバスが通っていたそうです。
そして美章土地株式会社へ…
順太郎は大正10年(1921)に商業会議所会頭を退いた後、同年12月27日に美章土地株式会社を設立しました4。
この時点で、美章土地株式会社は山岡美章が設立した…という阿倍野区の記述が間違いであることが確定します。美章土地株式会社は順太郎が作った不動産屋だったのです。
見たか阿倍野区、今すぐHPを訂正しなさい(笑
美章土地は社長の順太郎の他、長男の倭など役員をすべて身内だけで固めた会社で、天王寺中学(現高校)の東側一帯5に経営地を設営、そこを順太郎自身が「美章園」と名付けていたと記録にあります。
そう、ここで「美章園」の名前が出てくるのです。
本当に美章園を作った男は、山岡美章ではなく息子の順太郎。これを「シン・美章園をつくった男」と呼ばないわけにはいきません。
役員に名を連ねた長男の倭も、順太郎に負けず劣らずの経済センスがありました。
彼は慶応義塾の看板である理財科(現経済学部)を卒業し実業界に入ったサラブレッドで、大阪鉄道(大鉄。現在の近鉄南大阪線)や日本人造肥料(現在の日産化学)などの経営に携わりました。大鉄の直営住宅地、春日山住宅地の開発に携わり、本人もここに居を構えていました。
また、彼も関西大学の出資者の一人でありました。倭の息子の証言によるととんだ野球道楽で、関大野球部の遠征資金を援助したり、自ら有能な選手を口説きに行ったりと6、プロ野球ならGMのような存在として支えていたそうです。
また、大鉄役員として藤井寺の春日丘住宅地の開発に携わっていましたが、そこにスポーツ施設を作ろうと造営されたのが、今は亡き藤井寺球場でした。
順太郎がまだ生きていた頃の航空写真で美章土地の住宅をさぐってみると、赤で囲ったあたりがそれと思われます。
昭和3年(1928)の航空写真では、ここ界隈には今の美章園駅近くに家が固まっている程度でした。天王寺から一駅の場所でも阪和電鉄が開通するまでは住宅もまばら。天王寺高校の場所が変わってないだけに、今と比較すると同じ場所とは思えないほどの田舎っぷりです。
しかし、10数年後にはこの通り。
この美章土地株式会社、会社登記に電話番号がない…というのが気になりましたが(昭和初期なのに会社に電話がないのは甚だおかしい)、この美章土地、山岡家の超個人経営のせいか、順太郎のお眼鏡にかなった人にしか家を貸さなかったそうです7。順太郎、ほとんど商売する気ないやんと(笑
そして、推定した土地を実際に歩いてみると、そこで見つけました、「シン・美章園」を。それは続編を待て。
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