山形県北部、庄内平野の港町である酒田。
ここは江戸時代、上方から瀬戸内海を経由してやってきた北前船の主要寄港地で、関西とは縁がある地域でもあります。
関西から見ると、ヘタな外国よりも遠く感じる東北の一地方都市ですが、北前船に乗って上方文化がここへも流入していました。いわば関西と直結していたのです。見方を変えれば、酒田は「東北の京か大阪」とも言えるのではなかろうか。
その片鱗が、江戸時代の酒田の繁盛っぷりを歌った地元の民謡、「酒田甚句」に残されています。
酒田甚句日和山 沖に飛島 朝日に白帆 月もうかるる最上川 船はどんどんえらい景気 今町 船場町 高野の浜 毎晩お客はどんどんしゃんしゃん しゃん酒田はよい港繁昌じゃおまへんか
海原や 仰ぐ鳥海 あの峰高し 間を流るる最上川 船はどんどんえらい繁昌 さすが酒田は大港 千石万石横付けだんよ ホンマに酒田はよい港 繁昌じゃおまへんか
庄内の酒田名物何よと問えば お米にお酒におばこ節 あらまぁ ほんと すてき 港音頭で大陽気 毎晩お客はどんどんしゃんしゃん しゃん酒田はよい港 繁昌じゃおまへんか
地元の地名や名勝が並ぶ中、「ホンマに」「おまへんか」と、唐突に出てくる船場ことば(正統大阪弁)。個人的には「えらい」もそうじゃないかと思いますが、民謡に残っているほど、酒田では上方ことばが飛び交っていたのでしょう。
東北弁と言えば、我々関西人は「ズーズー弁」と呼ばれる独特の訛り、そして何言ってるかわからないというイメージがあります。実際に聞いてもまるで外国語、まだ英語の方が聞き取れます(笑
庄内ことばも、基本はズーズー弁なのですがどこか「関西風味」なんだそうで、関西では絶対放送しないJR東日本のCMで、酒田を歩く女優の吉永小百合さんが
庄内(東北)なのになぜ京都弁?
と聞いているセリフがあるそうです。
酒田の歴史を承知の上でも鳥肌が立つくらいの衝撃なのに、歴史を知らない関西人は、なんでやねんとちょっとしたパニックになるかもしれません。
酒田甚句のJ-POP版はこちら。ホンマに「おまへんか」と言ってます。
そして、この歌の合いの手「あ~へやへや」も、関西人の私から聞くと上方ことばが地元訛り化したものじゃないかと。「~やさかい」が訛った「~さげ」のように、酒田弁にはローカライズされた関西弁がけっこう残っているそうです。
東北の片隅に残る関西弁…大阪人として非常に興味深い。言葉も歴史文化の一つ、こういうのは残したいですし残して欲しいものです。
酒田は江戸時代を通して貿易都市として隆盛を極め、明治以降もその財力で東北に影響力を及ぼしていました。そのためか、酒田には和風洋風問わず大楼が立ち並び、戦争で焼き払われなかったせいか(後述しますが空襲自体はあった)、現在でもそれが観光資源となり人を引きつける磁石源となっています。
そんな酒田には一つ、妙な建物が存在しています。
酒田の謎の建物X
3階建てか4階建てか、どっちにしても酒田では非常に目立つ建物です。
日和山という酒田の名勝のすぐ横にあり、近くには映画「おくりびと」のロケ地にもなった料亭「小幡」もあります。
なのでその通り道にあるこの建物は、その異様な姿もあいまってすぐ目に付きます。
近代建築も好きなので、旅の際はその類の有名サイトを覗き、旅先の近代建築を必ずチェックするのですが、この建物にはなぜか触れていないものが多い。近代建築に対する嗅覚が警察犬並みの主さん連中がこれに気づいていないことは500%あり得ないので、その類のマニアですら触れたがらない(?)ほど正体不明なのでしょうか。
この建物を、現時点で「謎の建物X」という仮名にしておきましょう。
マンション3~4階分はあろうかという高さで、写真右側にある途中で分断された非常階段らしきものが、余計にミステリアス感を醸し出しています。これは噂の「超芸術トマソン」ではないかと(笑
家にしては上に伸びすぎなので住宅ではないはず。高台に建てられた立地と高さからして、火事を監視する、もしくは酒田港の近くなので船舶を監視する物見櫓的というのが、現物を前にしての推測でした。
ところで、酒田は空襲で焼けなかったと上述しましたが、空襲自体は受けています。
山形市でさえ爆弾一発落ちていない県の中で、酒田は空襲を受けた数少ない町。
酒田空襲は2回あり、港湾施設と駅を中心に被害を受けていますが、酒田市の記録によると昭和20年(1945)8月10日にアメリカ軍艦載機グラマンF6Fによる機銃掃射が行われ、16名の死者が出たとあります。
赤丸の位置にある「謎の建物X」も被害範囲に含まれています。
その証拠に、建物の一面には無数の孔が…これ機銃掃射の痕なのです。これが戦争のために作られたものではないことは明らかですが、立派な戦争遺産ですね。
なお、機銃掃射の痕は全国各地に残っており、神戸のど真ん中にも残っています。興味がある方は巻末にリンクを貼っておくので、この記事の後にどうぞ。
この建物は「◎◎屋」だった!
この謎の建物Xの正体、都道府県立図書館で閲覧可能な「大日本職業別明細図」(昭和12年刊)の昭和6年当時の「酒田港」に掲載されていました。
地図に掲載されていた場所も同じなので、間違いないと思います。
(「大日本職業別明細図」昭和6年 酒田港より)
「原ゴム工業所」という工場だったようです。
名前のとおりゴム製品をつくる会社だったようですが、取り扱い製品に「ピースバンド高級月経帯」と書かれています。
「月経帯」とは何か?
女性には月経があります。その処理は大和撫子の長年の悩みだったのですが、大正時代にゴムを使った生理用品が外国から輸入されます。それが月経帯。
最初は1円50銭と高かったのですが、国産ものが出回り企業努力もあって大正後期には40~70銭と半額以下に。原ゴム工業所もそれを作っていたのでしょう。興味ある方は『月経帯』でググってみて下さいな。
原ゴム工業所の「ピースバンド月経帯」は、人気だったのか詐欺に遭ったことがあります。昭和8年の新聞記事によると、東京のある男が200ダースを注文し、代金後払いで送ったら実は詐欺。原ゴムが被害届を出し警察が出動、すぐ捕まったとのこと。
被害額は当時の金で1,100円。200ダース(=2,400個)なので被害額で割ると約46銭。50銭のゴム月経帯があった時期としては妥当なところでしょ。
また、この新聞記事から、原ゴム工業所の社長(創業者?)が原幸之助ということも判明しました。
「大日本職業別明細図」には、当時の「建物X」の姿も確認できました。空襲の機銃掃射痕が残る面には「ピース…」と書かれていることがわかります。「…」は判別不能ですが、「バンド」かな!?
(昭和9年 酒田鳥瞰図 『光丘デジタルアーカイブ所蔵』)
一部近代建築サイトには「昭和10年築」と書かれているものもありますが、上述の『酒田甚句』の歌詞冒頭にある日和山の横に、あの洋館が描かれています。「昭和10年築」は明らかに間違いです。
この建物、実は遊廓のド隣にあるのですが、遊廓についてはまた別記事にて。
酒田にある「光丘文庫」には当時の商工名鑑が残っているのですが、それを見ると「原ゴム工業所」のことを深く掘れるはず。しかしここ、いかんせん平日しか開いておらず。これについては、平日に酒田へ行ける機会があればまたリライトします。なんかおもろいことが掘れるかも!?
・酒田市勢要覧 昭和12年
・酒田市史
・『観光案内パンフレット』昭和9年(酒田市立図書館光丘文庫)
・ブログ「あなたの知らない過去の酒田」様 原ゴム工業所
コメント
>被害額は当時の金で1,100円。200ダース(=2,400個)なので被害額で割ると約2.1円。
1,100÷2,400=0.45で、45銭になるので標準的な額なのでは?
建物は明治期、原ゴム工業所の後には割烹はらとして営業していました。母屋には大きな庭があり、結婚式も行われていました。この洋館の屋上では宴会も行われていたとは近所の方のお話。個人の所有で保存の対象にもなっていないようです。