呉の大和の目かくし塀(目隠し板)ー「この世界の片隅に」聖地巡礼

この世界の片隅ににあった大和の目かくし塀歴史探偵千夜一夜
この世界の片隅にと呉の聖地巡礼

広島県呉市、瀬戸内海の重要な造船基地であり、明治時代からの軍港の町であります。
江戸時代はどこにでもある瀬戸内海の寒村だったのですが、近代海軍の軍港として有望として開発さ
陸軍の広島とともに、広島県軍都の両輪のような歴史を歩んできました。
その発展ぶりは、平安京のように碁盤の目状に整備された広い道筋として現在も残っています。

その呉を舞台にした漫画・アニメがあります。『この世界の片隅に』です。
一人の若い女性の視点から戦争中の広島・呉であった日常物語で、私もアニメを見ましたが、戦争の悲惨さより、主人公のすずののんびりとした性格から来る、慌ただしくもゆったりとした時間の流れの方が私には感じられました。

『この世界の片隅に』では、今で言う天然ボケの「不思議さん」、すずが方向音痴で遊郭に迷い込んでしまい、遊女に助けてもらうシーンがあります。
呉は軍港、海の男のための遊郭が当然ありました。
せっかく呉に来たのだから、朝日遊郭のことも調べようかな〜なんて思ったのですが、『この世界の片隅に』の影響で取り上げている人が多い。
しかも、念のために偵察をしてみると、遺構なんて全く残っていない。

筆者
筆者

こりゃ書いてもタイパ悪すぎ…

要は、ブログ記事にしたり図書館で調べ物をしたりする時間に見合った効果が望めないということ。そりゃあ、こちらもそれくらいは計算します。

…といいつつ、やはり書いちゃったんですけどね(笑

そして書かない理由はもう一つ。遊郭なんてぶっ飛ぶような面白いネタが見つかったから。

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サラッと出てくる「目隠し板」

「この世界の片隅に」は呉がメインの舞台だけに、市内のあちこちに「聖地」が存在します。

その中で、アニメではすずの嫁入りが決定し、家族と呉へ向かう際にSLの煤煙にむせながらもトンネルを抜けると、目隠しの塀の背後を列車が走るシーンがあります。

大和目かくし塀

呉市の「聖地巡礼マップ」にも同様の案内があったのですが、私のアンテナが反応したのはある記述。

この世界の片隅にで鎧戸を閉める場面

昔の呉周辺は、「要塞地帯」として軍の機密が非常に厳しく保たれた地域で、アニメでもあるように呉に近づくと海側の鎧戸をすべて閉め、見えないようにするのが当たり前でした。これに従わないとスパイとして即検挙、それくらい厳しいものでした。
この要塞地帯は、他にも北九州などの工業地帯も同様。鉄道紀行作家の宮脇俊三も昭和19年(1944)に下関方面へ乗り鉄をした際、徳山駅に到着すると鎧戸を閉めるよう車掌に指示されたことが書かれています。

そして、呉の案内にはこんなことが書かれていました。

「今も痕跡の一部が残っています」

ほう…これは是非この目で確認しておかなければならない。遊郭よりこっちの方が面白そうや…足はその痕跡があるという場所へ向かっていました。

場所はJR呉線川原石駅周辺。ここあたりに痕跡が残っているそうなのですが…

呉線沿いの高架下は草が長々と生え、仮に遺構が残っていても草刈りしないと見つからないんじゃないかというほど、草木がよく育っていました。

さて、この「目隠し塀」、昔の写真からも確認できます。

呉線の目隠し塀の遺構この世界の片隅に
呉線の目隠し塀の遺構この世界の片隅に

昭和22年(1947)の呉市の航空写真を見てみると、現在の川原石駅周辺に均等に並んだ謎の建造物が…これが「目隠し塀」の遺構。軍がなくなり塀が用済みになったので、土台だけが残っているのです。

狂熱といってもいい暑さの中、滝のように流れ出る汗を拭いながら、目を凝らして緑の中にある「何か」を探していくと…

なんかそれらしきもの見〜〜つけた!

これではよくわからないですが、コンクリートでできた「何か」を載せるような土台です。

大和目かくし塀

他にももう一基、こちらは草むらから顔を出している形で確認できました。
周囲は長年整備されていないせいか、草がかなりの高さで生えていました。これらを刈れば、もう少し出てくる可能性が…と思ったら、2010年前半、「この世界の片隅に」が世に出る前のの先達ブログを見ると、草もほとんどなく土台が「むき出し」になっており、10数年の間に草木が茂ってカムフラージュされてしまっています。これが本当の目隠しか。

これらの塀の土台、電車からよ〜〜く眺めると、地上からは確認できなかった土台をさらに2つほど確認しました。ぼうぼうになってしまった草を刈れば、もっと出てくるはずです。

ただの草に隠れたコンクリートの塀ではあります。が、これも戦争の遺産であり、「聖地巡礼」ではないでしょうが。くどいようですが、ただのコンクリートですけどね。

意気揚々とホテルへ引き返し、さらに調べてみました。
これは海軍が絡んでいるので、公文書に関連の資料が残っているかもしれない。そんなほのかな期待を込めて探してみると…

国立公文書館 アジア歴史資料センターより

見〜〜つけた!

「目かくし塀」の設置が決まったのは、昭和11年(1936)のこと。内容によると、川原石から吉浦駅の間に目隠し塀を設置し、その場所は「68キロ619メートルから69キロ380メートルの間」とのこと。
キロは三原からの営業キロかと思ったのですが、現在の三原〜吉浦の営業キロは73.4kmと多少ズレが生じていて、結局のところ何のキロかわかりません。
それでも、だいたい600メートルの間に目隠し塀を作るということはわかります。

なお、現在の川原石駅は1999年に移転したものであり、旧駅は現在位置から500mほど呉駅側にありました。

目隠し塀の設置理由、それは「車中より軍港内の状況を見下ろさるる為」。「大和」うんぬんとは一言も書かれていません。「大和」の建造が議会に提出されたのが同年12月の第70回帝国議会なので、5月だと時期尚早。
「大和の目かくし塀」とありますが、単に機密保持が厳しくなっただけで戦艦『大和』とは関係ないと思った方がよさそうです。

では、その区間からどのように見えるのか。呉線から実際に見てみました。

呉線の車窓から大和ドックを臨む


ピンクの矢印部分に船が停泊していますが、この奥に「大和」が建造されたドックがあります。こりゃ「大和」以前に呉に停泊中の軍艦が丸見え。戦前はもっと建物がなかったはずなので、まさに絶景かな絶景かな。
海軍が目隠しせねばーとなる気持ちが、実際に見てみるとがわかります。

関係ないですが、目隠し塀の公文書の決定書類を読むと、ネイビー史に詳しい人には少し興奮を覚えます。

国立公文書館 アジア歴史資料センターより

①の部分のハンコの海軍大臣は米内光政。私の尊敬する人で、「米澤光司」というのも米内さんの姓名から一つずついただいているペンネームです。その米内さんが確認し、ハンコを押している書類というだけでテンションが上がります。
また、②の次官は、この時期ならかの山本五十六。この書類ではハンコがつぶれて見えないですが、同じ書類に添付されていた別案件の決裁には、くっきり「山本」の文字が。

軍務局長に井上成美が就任し、「海軍三羽烏」と呼ばれる海軍史に残る名トリオが揃うのは、この書類から4ヶ月後の話になります。だから、上の「軍務局長」のハンコは豊田副武(のち大将)のはず。
こちらについては巻末にリンクを貼っておくので、そちらもご覧下さい。

さて、本来ならここでブログは終わりです。が、ここはわたくし、ここで終わりません、否、終わらせてはいけないのです。

NEXT:まだあった!?目隠し塀の遺構

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コメント

  1. ゴハチ信者 より:

    本文中、

    「68キロ619メートルから69キロ380メートルの間」

    と記されているのは

    「68キロ610メートルから69キロ380メートルの間」

    現在の三原〜吉浦の営業キロは73.4km

    と記されているのは

    現在の糸崎〜吉浦の営業キロは73.4km

    のそれぞれ誤りです。

    そういう訳で、この一次資料は、三原起点68キロ610メートル付近から69キロ380メートル付近の間に目隠し塀を新設することに関して広島鉄道局長が鉄道大臣に提出したものとなります。

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