山下のその後
二・二六事件は、さまざまな人の人生を狂わせることとなりました。その中でも、山下はその代表格としてよく取り上げられます。
事件前後に「反乱幇助」と受け取られかねない言動を起こした山下は、朝鮮にある師団の旅団長へ。事実上の左遷で事件の詰め腹を切らされた形となりました。
山下は責任を取る形で軍隊を辞めるつもりだと、家族に告げています。が、将官は今でいう一身上の都合で勝手に辞められない上に、上層部からの慰留もあり、地方に飛ばされたという形で一件落着となったのでしょう。
中央から遠ざけられた彼は、陸軍中央に徹底的に嫌われましたが、それ以上に嫌ったのが昭和天皇と言われています。
事件で反乱者確定となった青年将校のメンツを保つために、山下は彼らの自決と引き換えに勅使を派遣してもらう案を提示、青年将校側は納得しました。
が、これに対し昭和天皇は「非常なるご不満」を表明。「非常なるご不満」とは今風の表現なら「ガチギレ」です。

自殺するならば勝手に為すべく此の如きものに勅使など以ての外なり
(俺にいちいちお伺い立てんなや❗❗死にたきゃ勝手に死ねやボケェ💢💢)
この原文ママのご回答だけでも、昭和天皇の怒りのボルテージがわかると思います。
仲介役としての山下は、これで天皇のご不興を買ってしまったとされています。
その後も、陸軍航空部門のトップである航空本部長に就任し中央に戻ってくるものの、それも一年ばかりで満洲、そして対米英戦争の火ぶたを切ったマレー作戦の陸軍側の総司令官へ。
歴史の皮肉ではありますが、この中央から遠ざけられたことが、山下を歴史の1ページに残すゆえんとなりました。

大東亜戦争の幕開けになったマレー作戦では、作戦の陸軍側トップとして海軍側の小沢治三郎司令長官との合同で事を行うこととなりました。
この二人、非常にウマが合ったそうで、

陸さんはわからずやが多いが、山下軍団長はすごく良い感じの人だ

小沢司令長官殿は素晴らしい指揮官であります
と、どちらにも絶賛された連係プレーを行い、口の悪い人は先の大戦で陸海軍のコラボが上手くいった唯一の例だと言います。実際はそんなことないんですけどね。
山下を有名にした出来事は、シンガポール陥落の英軍との交渉で放った「イエスかノーか」。
一般的には、勝者である山下が敗者の英軍司令官に対し威圧的に放った言葉とされています。が、実際は通訳が上手く通訳できずお互いのコミュニケーションに支障をきたしてしまい、少しイラっときた山下が

自分が欲しい回答は、降伏するのかしないのか、イエスかノーかなんだけど…
と通訳に向けて言ったこと1。その場にいた日本軍側の関係者も全員認めているので隠された真実というほどでもないのですが、なぜか「机を叩いて司令官に向かって怒鳴った」と尾ひれをつけて広まっているようです。
そして、これが山下を「愚将」として歴史的評価を下げている要因となっています。
また、戦後は全否定された陸軍ですが、その中の良心ともいえる情報参謀、堀栄三中佐はフィリピンで上官として山下と接することとなりました。
そこでの山下は熟練した知将という貫禄があり、堀が見抜いた海軍の大ウソ情報(台湾沖海戦の海軍発表の「戦果」のこと)を瞬時に理解し、それを元に前線を立て直しました。
しかし、海軍の大ほら吹きを鵜呑みにした参謀本部や南方軍がそれを理解せず、フィリピン戦線はガタガタになり地獄絵図になったのは、もはや説明不要。
これもトップとして山下の評価を下げている一因ですが、堀は著書で

山下さんは全然悪くない。大本営と南方軍が馬鹿すぎただけ
と山下をフォローしています。
最後は、前線の司令官として全責任を負う形で、フィリピンで軍事裁判にかけられ絞首刑の判決を受けました。
軍人にとって、絞首刑というのは屈辱以外の何物でもありません。ニュルンベルク裁判で死刑判決を受けたナチスドイツのゲーリングも、敗者として死刑は甘受するが絞首刑は軍人として受け入れないという理由で服毒自殺をしたほど。
同じ法廷で死刑判決を受けつつも、軍人としての名誉を重んじ軍服着用の上銃殺刑だった本間雅晴大将とは対照的に、山下は囚人服のまま絞首台の露と消えました。
そして、二・二六の曖昧な行動を含め、今も歴史的評価はあまり良いとは言えません。
個人的には、戦争からすでに四捨五入で80年が経っているので、「特攻の父」こと大西瀧治郎中将と共に、そろそろ再評価が必要な人物だとは思いますけどね…。
なお、この記事のネタになった「NHK特集 戒厳指令…『交信ヲ傍受セヨ』 二・二六事件秘録」は、ありがたいことにYoutubeで視聴可能。
NHKの放送史に残る名番組なので、是非見てみて下さい。
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