大阪府堺市のやや北部のあるエリア。

赤塗りのエリアの中に、公園・病院(しかも二つ)・中学校・警察学校などあまたの施設が集約されています。
実はここ、かつては旧帝国陸軍の輜重兵(補給部隊)第四聯隊があった軍用地で、戦後は米軍に接収され「キャンプ・カナオカ」と呼ばれ昭和30年まで進駐軍が駐屯していました。
戦前は赤エリアの西側、南長尾町の一部と東三国ヶ丘町一帯は練兵場だったので、かなり大きな地域が軍用地だったことがわかります。
陸軍聯隊からの歴史を書き出すとキリがないので、また別記事にて書こうと思います。
で、ここ周辺の戦後すぐの航空写真を観察していると、ふと不思議なものが目に入ります。

阪和線から赤線に沿って伸びる一本の線路らしきもの…
今回は、この一本の謎の線路を追います。
この線路は一体何なのか?!
まずは、この線路がいつからあったのかを追ってみましょう。
昭和17年(1942)の航空写真を見てみると、

線路は存在しないことがわかります。
よって、戦後に作られた可能性が非常に高い、というか確定。
さて、色々な方面で調べてみると、こんなものが見つかりました。

「昭和21年7月10日から阪和線金岡停車場で同停車場接続の聯合軍専用線に発着する(以下略」
と、官報に掲載されていたのです。
あ、当時の堺市駅は「金岡」という駅名でした。
この線路は、米軍に接収され「キャンプ・カナオカ」となった基地へと続く引込線だったのです。

戦後の連合国進駐軍(実質米軍)がいた時の日本には、「進駐軍専用列車」なるものが運行されていたのは、もう説明するまでもありません。
阪和線にも、実はそれが走っていました。
阪和線沿線には上述のキャンプ・カナオカの他にも、キャンプ・サカイ(現在の大阪公立大学杉本町キャンパス)、信太山の旧野砲兵聯隊の駐屯地があり、上野芝の住宅地や浜寺公園は将校用住宅として接収されていました。
その時のダイヤなどは不明ですが、その間に米軍兵士・将校用専用列車が運転されていてもおかしくない。
堺市の引込線は非電化だったので電車は入れなかったものの、客車や貨物などは入れたはず。
前述のとおり、キャンプ・カナオカは昭和30年(1955)頃に返還されました。

その頃にはすでに線路が外されていた模様ですが、まだ当時は周囲に何もなかったせいか、線路の跡がくっきり残っています。
その下には、国の日本住宅公団(現都市再生機構、俗にUR)による公団団地第一号、「日本初の団地」として歴史に名を残す金岡団地1が見えます。
その後は周囲の宅地化が進み、線路跡は住宅造成に消えていきました。
それから何十年もの月日が過ぎ去った現在、さすがにこの線路跡の痕跡は残っていまい…
とGoogleマップを航空写真に切り替えてみると…ニヤリ
そして、足は現場へ向かっていました。
令和に残る線路跡

この写真をご覧下さい。
黄線の家の並び、周りと比べて明らかに不自然ではありませんか?
これが、現在に残るキャンプ・カナオカへの専用線の跡なのです。

地上から見るとごく平凡な下町界隈という感じなのですが、

一ヶ所だけ区画が異様な場所があります。現場に来てみるとやはり一目瞭然。

ここが専用線の跡なのです。

逆から見るとこのとおり。なんとなく線路跡というのがわからんでもない。

昭和36年(1961)の航空写真を見ると、写真の家が廃線跡に沿って建てられているのがわかります。
でも、そこに何十年も前に鉄道が走っていたと知らないと、これが鉄道跡とは気づくまい。
さて、この線路の「終点」だった「キャンプ・カナオカ」ですが、こちらは書き出したらボリュームがすごいことになったので、またの機会に書きたいと思います。

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