鳥取市の遊郭-その名は「衆楽園」
鳥取という名前は、平安時代の文献にも名が出てくるほど古いのですが、現在の鳥取市の基礎が築かれたのは江戸時代のことになります。
元和3年(1617)、池田光政が因幡・伯耆32万石を与えられ、鳥取に根拠を置いたことがはじまりで、池田は数年の時間を費やし鳥取を城下町として整備し発展しました。その後、光政の遠縁の池田光仲が岡山藩から赴任、幕末まで続きました。現在でも市内には鳥取城が残っています。
鳥取にあった遊郭、「衆楽園」は、その池田氏と関係があります。
衆楽園とは、元はというと池田氏の庭園(下屋敷)でした。岡山には「後楽園」がありますが、衆楽園はその姉妹版といって良いでしょう。戦前の新聞記事(鳥取新報)にもそういうルーツがあると書かれています。
その下屋敷が、明治4年の廃藩と共に、士族の小倉直人という人物に払い下げられます1。小倉は米子城も買い取るのですが、それは本題ではないので省略します。
払い下げられた衆楽園は、翌年に一般開放されました。江戸時代には入るどころか近づくことも許されなかった下屋敷に入れるとあって、たちまち鳥取市最大の歓楽地になりました。
人が集まる場所には、当然店が出来ます。衆楽園内にはお茶屋などの喫茶店、劇場などが軒を連ね、大いに賑わいました。
が、その中に「いかがわしい一画」が出来ました。
芸妓がいた置屋街、つまり花街だったのですが、当時の鳥取芸妓は
「昔は芸者といえば芸のために命をかけ、意地と張りをもっていたのであるが、今の芸者はほとんど遊女とちがうところがなく、芸より枕が専門で下等の売春婦となりさがった」
明治45年 因伯時報
と新聞に嘆かれているように、「二枚鑑札」と芸妓が娼妓を兼ねとることが多く、衆楽園の「いかがわしい一画」が芸者の街としても事実上の遊郭みたいなものと解釈することができます。
芸者だけがいる「花街」は中心部にある本町にあって、鳥取では芸者の置屋を「検番(券番)」と呼んでいました。ふつうは「検番」とは芸者の事務所を指すのですが、ここは一風変わっていたようで。
やれ礼儀や節義だと生活が縛られていた士族は、有り金を持って衆楽園になだれ込み、その有り金を使い果たしては家財を質に入れてまた新地遊びへ…という有様。妻女の着物まで売ってついに売るものがなくなり、自分が素寒貧になったことに気づいて茫然自失…なんてまだマシな方。最後は新地で遊ぶ金ほしさに詐欺や強盗まで働いた元士族まであらわれたと、当時の新聞には書かれています。
明治7年(1874)、鳥取県に「貸座敷並ニ娼妓取締規則」が制定されますが、その中にはまだ衆楽園の名前はありません2。明治10年(1877)に鳥取県は衆楽園を公式に遊郭として政府に上申、許可されます。ここで衆楽園が正式な遊郭として認められ、藩の城主の下屋敷が遊郭になる、全国的にも一風変わった遊郭はこうして成立しました。
鳥取の「駅前遊郭」
鳥取の衆楽園のまた変わったとこは、町の中心部にあったということ。
ふつう、遊廓は場所の性格柄町の郊外に作られることが多く、またできた時は町外れでも市街地が広がっていくにつれて遊廓も街の中心部になっていき、その度に移転を繰り返していた事もありました。
かの吉原も、今でこそ東京のど真ん中ですが、明治時代までは町外れ。江戸時代後期の地図を見ても、周囲には何もなかった僻地でした。
大阪の飛田遊郭も同様で、一面畑だけのガラーンとした所だったのは、今の市街地で考えると信じられないでしょうが、本当です。
上の地図は明治40年(1907)の鳥取市の地図です。開業して間もない鳥取駅のすぐ上に「衆楽園」の文字が見えますが、これを見てわかることは、
2.鳥取駅は町外れに作られた
3.鳥取駅と衆楽園遊廓はすぐそこの位置
ということ。鳥取駅が町の中心部から遠くに作られた結果、駅と遊郭とが隣り合わせになってしまったと。
(明治40年 衆楽園遊廓大門 『鳥取県警察史』より)
昔の新聞によると、衆楽園は黒い板塀で囲まれており、入口は一ヶ所のみ、そこには他の遊廓の例に漏れず、写真のような大門があったとあります。
板で囲まれていたとは言え、これでは鳥取駅から遊郭が丸見え。これはダメだと何度か新地移転計画が持ち上がるのですが、結局、売防法施行の昭和33年の最後の最後まで場所が変わることはありませんでした。
衆楽園の変遷
(昭和12年の鳥取市地図より)
衆楽園はまたの名を「失楽園」…もとい遊廓があった町名から「瓦町遊廓」とも呼ばれ、スキャンダルがあると地元新聞に「醜楽園」などと書かれていたこともありました。
数字的な新地の最盛期は大正時代のようで、『鳥取県統計書』によると、数字が所々で歯抜けになっているものの、第一次世界大戦が始まった大正3年(1914)と、大戦景気で「成金」がたくさん発生した同8年(1919)が数字のピークでした。
県立図書館が休館していた関係で現物は拝めなかったものの、大正4年(1915)元旦の現地の新聞広告に大きく新年の挨拶広告を載せています。
鳥取遊廓貸座敷組合事務所
稲荷山、益家、今津、戎家、錦波楼、由川楼、寿の家…(総数40軒)
その後は昭和恐慌の煽りもあって数字は下降線を描いていきました。
昭和4年1月17日付「鳥取新報」によると、当時の娼妓は一人当たり1年に558人の客を取り、1日換算で2人の客を取っているという計算になります。また、年間売り上げは2427円90銭、1日当たり6円65銭ほどというデータがあります。
遊廓の凋落は衆楽園に限ったことではなく、鳥取県全体に及んでいました。経済恐慌で客足自体が遊興から遠ざかったこともありますが、それだけではありません。天敵である新しい風俗産業、カフェーが鳥取にも現れ、上玉の女がそっちに取られてしまったことや、満州事変で渡満する遊女が多くなったこと、そして娯楽の幅自体が広がったこともあります。が、何より遊郭という旧態依然とした制度自体が、時代の変化とともにオワコンになったことがあります。
そして、鳥取県が打ち出した「娼妓の酌婦化」制度でした。要は遊郭やめましょうという廃公娼ですが、酌婦になることにより法の縛りがゆるくなり、天敵カフェーなどと太刀打ちできるという苦肉の策。といっても、女の子たちが「公娼」から「私娼」になるだけで、実態は変わらないのですけどね…。
この公娼の酌婦化のモデルケースが、後で書く倉吉でした。これが当たったか、昭和10年(1935)に米子が、昭和13(1938)年に衆楽園も遊郭が私娼街となり、これによって鳥取県は遊郭がない県(廃娼県)になりました。
そこからは、戦争時による「非常時」のかけ声のもと、営業自体も自粛せざるを得なくなりました。
昭和13年(1938)~14年(1939)にかけ、鳥取の歓楽街への締め付けが厳しくなり、「享楽の自粛」を行った新聞記事が残っています。
衆楽園は、午後10時以降の客と遊女の外出を禁止し、午前2時には一斉に閉店することを申し渡したそうです。
また、遊廓だけではないものの、貸座敷を含めた遊興の新規営業は「絶対に許可せず」、既存の営業者の店舗拡張なども認められなくなりました。また、酌婦女給(遊女)の新規登録も停止、ここに暗黒時代に入りました。
そして、そのままアメリカとの戦争へと突き進んだだけですが、遊里がなくなったわけではなく、そのまま終戦まで衆楽園は生き残ったと思われます。
戦後の衆楽園
鳥取市は、県庁所在地の中でも空襲を受けなかった珍しい都市です3。よって市街地が焼け野原になることもなく、衆楽園もそのまま残り戦後に営業を再開したことが、断片的ながら資料から確認できます。
しかし、鳥取市街地は火の海に襲われます。昭和27年(1952)に起こった「鳥取大火」です。一軒の家からの失火4から始まった火災は、折からの強風と乾燥で瞬く間に市街地をなめ尽くし、死者は2名で済んだものの市街地はほぼ焼け野原となり、当時の鳥取市民の3世帯に1つが家を失ったといいます。
衆楽園も、鳥取大火の例外に漏れませんでした。
鳥取市立図書館の資料からですが、市街地の焼け野原ぶりがよくわかると思います。当時の資料を読み込んでみると、「鉄筋コンクリート製の建物以外は全部燃えた」と断言して良いほどの有様でした。が、鉄筋コンクリート製の建物でも、内部は全焼しています。
私の地理感覚が間違っていなければ、衆楽園は赤字の部分にありましたが、写真を見る限りでは全焼してお亡くなりになっています…。
鳥取市立図書館所蔵の大火の資料からの地図には、「新地」と書かれた衆楽園の位置が明記されています。
大火から7ヶ月後の衆楽園の航空写真を見てみると、復興も早かったかかなり家も建っている様子が上空から確認できます。衆楽園は不死鳥のように蘇ったのです。
その後、昭和31年3月時点での衆楽園の状況は、「業者数28軒 従業婦103名(『鳥取県警察史』)」となっており、33年の売春防止法完全施行により、明治10年からの80年の歴史に幕を閉じました。衆楽園の業者は、売春防止法施行直後に発行されたと思われる地図によると、ほぼすべて旅館に転業したようです。
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