函館遊郭の夜明け

北日本最大の港町、函館。
天然の良港として江戸時代から有名だったところで、江戸末期の19世紀には幕府の直轄地となり奉行所が置かれました。北海道の中では歴史に名を残すもっとも古い地の一つです。
それだけに、明治以降の開拓地としてスタートの札幌と違い、函館の歴史は江戸時代からにさかのぼることができます。
”箱館”という字だった18世紀後半には、「洗濯女」などと呼ばれた私娼が跋扈していた記録が残っており、山ノ上町と呼ばれた一角で「渡世茶屋」という看板で営業を行っていました。もちろん、「茶屋」の実態は遊女屋です。
19世紀に入り、その茶屋連中が

遊女屋として営業させて下せー
と奉行所に請願し、許可を得ます。これでモグリ→黙認となり山ノ上町の遊郭としての歴史の一歩をあゆむこととなりました。
そして、函館史の「その時歴史が動いた」な出来事が起こります。1855年(安政2)の日米(他)和親条約による箱館開港です。
これがきっかけで箱館は横浜・神戸・長崎に次ぐ国際貿易港として世界に開かれたこととなったのですが、困ったことが一つ起こります。それは…外国人の性処理。
そこで、奉行命令で山ノ上の茶屋街を正式に遊女屋として外国人にも一部開放した上で、正式な遊郭として承認しました。以前は黙認だったのですが、黙認と承認は大きな違いです。
また、のちに私娼を集約するという奉行の命令で新築島内(現豊川町)にも遊女屋の営業が許され、箱館の遊郭は実質2ヶ所となります。
この豊川町には、のちに函館の産業の一つとなる造船業の工場(ドック)がいくつかあり、彼ら目当ての開設という見方もできます。
1865年(元治2年/慶応元年)発行と伝わる「箱館新廓遊女屋細見一覧」によると、山ノ上町の遊女屋は25軒。それぞれの遊女屋のお抱え遊女の名前も記載されており、総計329人。その他、芸妓が110名、男芸者(幇間)も扇屋万治など5名。遊廓・花街が合体した大規模の廓ということがわかります。
箱館は幕末から明治の戊辰戦争の舞台となりました。その歴史的経緯と結果はご存じのとおりなので省略しますが、その中にちょろっと、この遊郭が出てきます。

豊川町の方に、「武蔵野楼」という屋号の遊女屋がありました。
「豊川町の入口の橋の袂に豪気な三層楼の家台骨を構へ、其頃珍らしかった屋上庭園など設け、女郎衆は孰れも一粒選の奇麗首計りと云う素ばらしい景気であった」
『函館百珍ト函館史実』
文言からもその大きさがうかがえます。
遊郭と戊辰戦争の話は、ちょっと後述します。
そんな山の上遊郭も、短命に終わりました。戊辰戦争のせいではありません。
明治4年(1871)9月12日の大火により、遊郭が全焼してしまったのです。この火事は遊郭の切見世長屋、つまり遊女屋から出火したことから「切見世火事」と呼ばれ、函館市のHPにも記載されている大災害となりました。
これにより、灰となった遊郭には移転命令が出て、次の蓬莱町・台町に移転することとなります。
山ノ上遊郭の現在いま

山ノ上遊郭は、弥生小学校の西隣の区画にあったと言われています。が、江戸末期に生まれ明治初期に消えた、しかも火事で灰になったのでその跡は全く残っていません。
夏草や 廓女どもが 夢の跡。

ここの遊里跡探偵の目印になる弥生小学校も、昭和初期に流行した曲線美をふんだんに使用した近代建築(1938年築)。
シンプルながら余計なものをそぎ落とした昭和初期建築ならではの美があるので、近代建築好きは遊郭抜きでMustです。

また、山ノ上遊郭跡の道筋には、「大正湯」というレトロな銭湯も存在します。
名前の通り大正3年(1914)に開業した銭湯で、建物は昭和2年(1927)築だそうな。
後で知ったのですが、私がこれを撮影したのは2022年8月12日。この年どころかこの月限り(2022年8月31日)で閉店だったそう。
内部は、レビューによると「外観のレトロに反して至ってふつう」だそうですが、知ってたら入ってたのに、惜しいことをした…。

箱館は新撰組終焉の地でもあります。
市内にある副長の土方歳三が最期を迎えたという地には、人と花が絶えることがありません。
そんな箱館市内に、こんなものがあります。

「新撰組最後の地」と書かれた公園の一角、ここは箱館戦争時、新選組が中心となった旧幕府軍が護っていた「弁天台場(弁天岬台場とも)」があった場所で、ここでの降伏を最後に新撰組は消滅しました。
ここと山の上遊郭は、目と鼻の先の位置関係にあります。
明日死ぬかわからない状況で、目の前に遊郭があって隊士たちが行かないわけがない。

明治2年旧暦5月10日(新暦 6月19日)、翌日に新政府軍の総攻撃があるという情報をつかんだ旧幕府軍(蝦夷共和国)の幹部が豊川町の武蔵野楼で最後の晩餐ならぬ最後の宴を行いました。
その中にはかの榎本武揚や大鳥圭介、土方歳三もおり、今生の別れとばかりに朝まで飲み明かしたのだとか。
幕末や新選組ファンにとっては、函館の遊郭とくればこの武蔵野楼をイメージするはず。
以前は、その武蔵野楼があったとされる場所にガソリンスタンドが建っていたのですが、今はそれもなく、「豊川町10-1」という住所がわからないと痕跡すらありません。
当時の建物は残っていなくとも、山の上遊郭がこの世に存在していた遺物は存在します。
函館市の西端の船見町に、「地蔵寺」というお寺があります。近くに外国人墓地がある観光エリアなので、観光客の数も比較的多いところですが、お寺の入り口に

娼妓の供養塚があります。

石碑には「廓内遊女屋」と書かれた下に、当時の遊女屋の屋号と楼主の名前が書かれており、山の上遊郭を偲ばせる数少ない遺構となっています。
また、地蔵寺にはもう一つ、遊郭にまつわるお墓が残されています。

高清近太夫という、山の上遊郭時代の遊女の墓があります。仙台の東山というところ出身だそうですが、現在の仙台に東山という地名は存在しません。
墓には「万延元(1860)」という文字が刻まれており、そのころに亡くなったのでしょう。
この太夫の墓には、一つの謎があります。これ、なぜかお寺の敷地外にあるのです。
地蔵寺と外国人墓地の間にある道の端に、申し訳なさそうに置かれているせいか、気づきそうで案外気づかない人も多いと思います。
私も実は1回目は全く気付かず、図書館で情報収集してはじめて存在に気づき2回目の訪問を実行しました。が、境内をくまなく歩きへとへとになった結果、

こんなところにあったんかい…
とため息をつきたくなるような穴場に。
元はお墓の場所まで地蔵寺の敷地内だったのかもしれませんが、それなら敷地内に移動すれば良いだけの話。
函館遊郭史に名を残す名妓の墓が、なぜ放置プレイ同然に道端に置かれているのだろうか…。

かわいそうなので、近くの生花屋さんでお花を買いきれいに清掃し、旅の安全を祈願しました。
山の上遊郭のお話、これにて読み終わり。
お次の遊郭のお話はこちら!蓬莱町・台町遊郭編です。
コメント