遊郭・赤線跡をゆく 番外編-飛田新地の「嘆きの壁」を探して

飛田新地嘆きの壁 野良歴史家の歴史探偵
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飛田遊郭は焼けたのか?

ところで、ネットでは「飛田遊廓が先の戦争の空襲で焼けたか否か」についての情報が錯綜している感があります。焼けてない、いや、焼けたと。

よって、この記事を借りてこれをさっぱり解決してみようと思います。

1947飛田航空写真

昭和22年(1947)の航空写真を土台に資料を照らし合わせると、こうなりました。
結論から言うと、飛田は3月14日の第一回大阪大空襲で大通りの南側の一部が一部焼失しております。写真のとおり、『百番』はギリギリセーフ、建物は健在でした。
上の写真は、高高度から撮影している上に天気も曇りだったせいか質は良くないのですが、遊廓の大門通りの北側は全く焼けていないことくらいは確認できます。

ついでなので、大阪の色街の空襲の被害をまとめてみましょう。

大阪の遊郭空襲被害一覧
■昭和20年3/13~3/14

◎松島:「焼失」、いや「消失」って書いた方がいいくらい全焼
◎飛田:上記の通り
◎五花街遊廓:全焼
◎新町:全焼
◎堀江:全焼

■6月1日
◎港新地:全焼

■6月15日
◎今里新地:一部焼失(『松島新地誌』より)
(ただし、昭和22年の航空写真分析ではほぼ無傷)

■7月10日
◎龍神・栄橋:全焼
◎乳守:全焼
◎貝塚:3分の2焼失

★枚方:被害なし
★住吉新地:被害なし
★池田新地(池田市):不明

 

おわりに

飛田嘆きの壁

廓と娑婆を分けた境界線は、運河や川などが中心ですが、飛田の「嘆きの壁」は現存する仕切りとしては非常に珍しいもの。実際に見てもこれといった特徴もないただの壁ですが、耳を澄ませると数々の名の知れぬ遊女たちの「嘆き」が聞こえてくるかもしれません。

廓は「一度出たら二度と生きて出られぬ」などと言われていました。実際は、特に飛田遊郭が設立された大正時代にはそんなこと全然ないのですが、それでも病気などで出られず死んでいった名もなき遊女たちの薄幸の人生に思いを馳せるのも、遊里史研究家としての思いの一つであります。

飛田新地の歴史も読むと、より深く理解できます!

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