戦争の陰-さらなる発展
出る杭は打たれるとばかりに百貨店協会から「自粛」を求められた高島屋均一店、売上は順調なものの、均一店が百貨店直轄事業である以上、新規出店ができない。そうであれば独立(分社化)すればいいと、圧力がかかった翌年から模索していました。
そんな中昭和12年(1937)10月、デパートの営業を午後6時までとする「百貨店法」が施行されました。
当時のこんな新聞記事があります。
(昭和13年1月10日『神戸新聞』-神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ新聞記事文庫所蔵)
百貨店の一部門である均一店も「夜6時閉店」の法の網にかかり、以前は夜10時まで営業していた神戸新開地店などの売上が響いているという記事です。新開地店は夜がいちばんのかき入れ時だったそうで、均一店店長も「売上半減、こんなん商売になりまへんわ(涙)」と青息吐息な状態でした。
が、そんなことを見越したか、高島屋は数年間練りに練って秘蔵していた「奥の手」を投入しました。
高島屋は満を持して均一店を分社化、「丸高均一店」として独立させます。これだと百貨店にはあたらず百貨店法の適用外。しかも百貨店協会の圧力で不可能だった新規出店も大手を振って行うことができます。
昭和14年からは大阪・東京に続けて名古屋本部も設置され、夢の「全国チェーン」に向けてスパートをかけます。
今まで止められていた分、堰を切ったように出店ラッシュが続いていることがわかります。
高島屋の社史にも、昭和15年~16年が黄金期と記しており、店舗は3府(東京も「府」)14県、従業員数2100名以上と数字も最高を迎えました。
ところが、時代が悪かった。
昭和17年(1942)に株式会社丸高と名称を改めるも、世は戦争まっただ中、物資不足はこちらにも影響しました。物資不足によりもはや均一販売などできず、商品数も店舗数も縮小、昭和19年(1944)頃に自然消滅という形で終焉を迎えました。その時の従業員数は869名、そして戦災で残った店舗はわずか17店。均一店の栄華、そして日本初のチェーン店の夢は消え去りました。
その後の丸高ストア
戦後の均一店は、戦災で残った店舗を利用して「丸高ストア」を開設しました。が、戦前の均一店の形態ではなく、ただのスーパーマーケットとして。日本初の全国チェーン店の野望はどこへやら、のちに「高島屋ストア」と改名し、ごくふつうのスーパーの店生(?)を歩みました。
私が物心ついた時にも「高島屋ストア」は存在していたのですが、親や祖母は「まるたか」と言っていました。高島屋がなんで「まるたか」やねんと不思議に思っていたのですが、このブログで歴史を調べて初めて謎(?)が解けました。
ちなみに、九州を中心に展開するスーパー「まるたか生鮮市場」は何の関係もありません。
そして2003年、高島屋ストアはイズミヤに買収され「デイリーカナート」へ改名、ダイソーなどの「後輩」の活躍を横目にしながら、「均一ショップ」のパイオニアとしての暖簾を下ろしました。
ちなみにデイリーカナートは大阪を中心に現存しており、関西、というか大阪の台所として地元民に親しまれています。
こんな記事もあります!よろしければどうぞ!
・『高島屋十銭二十銭ストアに就いて』(商工省編 1936年)
・『十銭均一店と其の仕入研究』(仕入案内社 1931年)
・『高島屋四十年史』(高島屋 1937年)
・『高島屋135年史』(高島屋 1968年)
・『写真心斎橋』(心斎橋新聞社 1935年)
・『開業五十年』(南海鉄道編 1936年)
・Wikipedia
・DAISOホームページ
・Seriaホームページ