太平洋戦争中、もし戦争反対と言ったらどうなるのか?

太平洋戦争戦争反対歴史エッセイ
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逮捕より過酷な仕打ち

これまでは法律に基づいたリスクでしたが、それだけではありません。逮捕されたほうがまだマシなほどの、社会的制裁も待っています。

戦争中は、隣近所のコミュニティに町内会、その最小組織として「隣組」が組織されていました。
この町内会や隣組は、良く言うと相互扶助ですが、悪く言うと相互監視&密告。基本的に組織から一人「悪い人」が出れば組の連帯責任なので、お互い「悪い言動」がないかチェックし合います。当時は「3人以上で話していた内容は警察や憲兵に筒抜け」と言われていました。
ちなみに、今の北朝鮮の相互監視システムはそれを参考にしたとも、戦争中の隣組の残滓だとも言われています。

仮に、戦争反対を唱えたり、戦争反対の運動を隠れて起こしたとしましょう。

当然、当局に睨まれます。
仮に尻尾をつかまれず逮捕・拘束されなくても、特高や憲兵特高課が公然と尾行をつけます。尾行はふつう、相手や周囲に悟られないようにするものですが、「公然と尾行」というのは尾行対象だけでなく、

官憲
官憲

こいつは危険人物ですよ!付き合ったらダメですよ!

声をかけたらあなたも同罪ですよ!

と、対象人物の近所に無言の圧力をかける意味合いもあります。

隣近所は、痛くもない腹を探られたくないので自然と彼を敬遠します。やがて周囲から孤立し、実質村八分となります。不憫に思って声をかけたりすると、その人も村八分。こういう方法は、田舎の社会や閉鎖的な環境では現在でもあります。

そうなると配給などの情報も入ってこず、家族は飢えに飢えてしまう。家に金やモノがあれば、田舎に行って食料を調達したり、食堂で「裏メニュー」を食うことも不可能ではないですが…1

そう、戦争中のルール破りは、「メシ抜きの刑」も待っているのです。

これなら禁錮・懲役刑の方が全然マシ。なぜならば、美味い不味いは別として、刑務所内では戦争中もずっと法律にもとづいて三食ちゃんと配膳されていたから。刑務官より受刑者のほうが豪華な食事だったそうで、そこらへんはお役所仕事、まことに「きっちりしていた」ようです。

逮捕されたらされたで、残った家族・親戚にも仕打ちが待っています。
当然、「非国民」のレッテルを貼られ村八分。当時「非国民」のレッテルを貼られるということは、基本的人権剥奪に等しい社会制裁です。それどころか、お前のような非国民が町内にいてくれたら困ると、家族ごと従来のコミュニティから追い出されることすらあります。
そして家族は崩壊の上離散。政治犯として服役し、釈放された頃には家族と音信不通となったり、非国民の声に耐えきれず自殺したりで、天涯孤独になっていたという人いました。

自分だけが捕まって制裁を受けるなら、おそらく戦争反対運動でもなんでもするでしょう。しかし、家族・親戚まで迷惑がかかるのであれば、情として躊躇してしまう。「他人の目」という日本人がいちばん気にする点を突いていたのです。

さて、法と周囲の目でがんじり固めにされていた戦争中の社会で、

戦争反対!

などと言える勇気、あなたにはありますか?

そして、

首相○ね!

などと書いても何も起こらない事が、どれだけ平和で素晴らしい事なのか、わかりますよね?

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  1. 昭和18年後半くらいまで、東京の食堂でもカツ丼、親子丼、カレー、清酒などの「裏メニュー」があり、金とコネさえあれば食えたそうです。作家の山本夏彦いわく、金があっても何も食えず、本格的にひもじくなったのは翌19年に入ってからだそう。
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