山下奉文という人物をご存じでしょうか。

陸軍軍人で、「奉文」という名前が「ともゆき」というなかなか難読な人でもあります。なお、「ほうぶん」と音読みしている人もいます。
「マレーの虎」という異名で知っている人もいるかもしれません。
昭和史のターニングポイントとして必ず挙げられる出来事として、昭和11年(1936)の二・二六事件があります。

「皇道派の陸軍青年将校によるクーデター事件」
事件を一言でまとめろと言われると、こうなります。が、実際はそんな単純なものではなく、「皇道派」と「統制派」による派閥抗争、「皇道派」が実権を取り戻すために青年将校を焚きつけた、「統制派」がクーデターを予測して事件を機に「カウンタークーデター」を行う準備をしていたこと、そして事件と関係ないとされてきた海軍も、実は0.5枚くらいは噛んでいたという間接的証拠が令和になって出てきたりと、色んな人物や彼らの思惑が重なった、非常にドロドロした出来事なのです。だからこそ面白いんですけどね。
昭和史の流れががらりと変わったこの事件に、山下はかなり関わっています。
彼は「皇道派」とされ、青年将校たちもそう思ってたびたび山下のもとを訪れています。
そのとき、酒でも入ったか、

岡田(首相)なんかブチ斬るんだ!
と青年将校たちを焚きつけたとされています1。二・二六事件を独自で調べた松本清張も、この案件を例に挙げ、

ただの俗物
とこき下ろしています。
しかし、まさか本当にやってしまうとは思わなかったのでしょう、彼らが行動に移して「岡田首相を殺害」してしまうと、

陛下の兵を使うとは何事か!
と非常に怒ったと、山下の義妹が述べています(後述)。
そして、普段から皇道派だとマークされていたのか、憲兵の電話傍受(要は盗聴)記録のリストに、彼の私宅がアップされ、実際に録音されています。
いざ事に及んだら「それはいけないことだ」という。おそらく、部下を動員して勝手に兵を動かしたことに対し怒ったのだと思われますが、少将でありながらそこまで読めない方も、将軍としての資質を問われかねません。
事件当時、山下は陸軍省軍事調査部長という地位に就いていました。「軍事調査部」って何じゃ!?と不思議に思っていたのですが、調べてみると思想・情報や対マスコミ工作に携わる部署のようです。
事件後、山下は軍事参議官の会議に陪席しますが、大将の集まりである軍事参議官会議になぜ少将の、特に事件に関係ない山下が陪席できたのか。それが謎です。
そして、二・二六最大の謎とされる「陸軍大臣告示」の作成にかかわります。
これを語りだすとまた本題からずれるので省略しますが、これをめぐり、実際に「反乱幇助」として事件鎮定後に憲兵隊の取り調べを受けています。
山下の旧宅跡を訪ねる
二・二六事件当時、山下奉文は駒場というところに住んでいました。最寄り駅は、京王井の頭線の「駒場東大前」。渋谷からたった2駅の場所にある、現在は目黒区に属している地域です。

駅を降りると目の前が東大教養学部(駒場キャンバス)が目の前に。そのままやん!と大阪人ならツッコミを入れそうなそのままの駅ですが、周りには東大をはじめ数々の学校が集まる学芸の街でもあります。

駅の広告も、やはり「東大一直線」とばかりの塾・予備校ばかり。東大を抜きにして駒場を語るべからずといったところでしょうか。
しかし、東大と逆の方向は、戦前からの閑静な住宅街となっています。
反対側が「東大」なのとは対照的な山の手の下町といった風情で、これまた戦前からあるという商店街は、学生たちが行き交うヤングな通りとなっています。
私が山下大将宅を知ったのは、昭和53年(1978)に放送された「NHK特集 戒厳指令…『交信ヲ傍受セヨ』 二・二六事件秘録」という番組でした。青年将校たちの電話の音声が残っていたということで、当時はものすごい衝撃を持って伝えられました。私が見たのは再放送でしたが、二・二六事件や昭和戦前史に首を突っ込むきっかけの一つでした。
また、21世紀の世になって見てみると、事件にかかわった関係者の生の声が収められている、歴史的にも貴重な証言集となっています。
この番組、ようつべにノーカットでアップされているので、よかったら見てみて下さい。また、この番組の裏話やより詳細な話は、番組プロデューサーだった中田整一氏によって書籍となっています。内容は非常に濃く、二・二六事件関連書籍の中の白眉となっています。
番組中、山下の義妹が当時の家を訪ねるシーンがあります。事件当日、義妹は事件を伝える電話を受け取り、義兄に渡したら電話口で大声で叫んでいるのを鮮明に覚えていたとインタビューに残しています。

まずは、昔の井の頭線の電車が走るシーンが出てきます。

場所はここだと確定しました。

カメラのアングルが変わり、この看板が画面に映ります。

その44年後の姿がこちら。看板はなくなっています。

山下の義妹が当時の私宅近くのY字路を左に曲がります。

2022年の同じ場所がこちら。左側の道の手前の電柱にあった電話ボックスが撤去されています。
これが場所特定の決め手だったのですが…。
当時の山下奉文宅は、その手前の電柱の向こうにありました。

当時の山下宅はこのようになっており、

当時の地図にも「山下」の文字が見えます。

番組が放送された昭和53年(1978)時点ですでに自宅はなく、駐車場になっていました。
ただ、この時は当時の門柱や塀が残っており、面影はありました。

そして現在(写真は2022年)、山下宅はマンションになっています。当然、当時の面影は全くありません。
で、当時の地図を見ると少し興味深いことが。

当時の駒場の地図を見ると、山下宅が表記されている近くには「偕行社」という旧日本陸軍将校の親睦組織で2、青線部分には「偕行社住宅」と書かれています。
ここは「偕行社目黒住宅」と呼ばれた陸軍将校用の賃貸住宅群で、今風に言えば自衛隊の団地のようなもの。尉官クラス用の住宅だったそうです。
間取りまで調べていた人もいて、そのブログによると間取りはなんと4DK。当時は珍しかった風呂まで完備だったとか。
赤星の部分(804番地)は、二・二六事件の青年将校側の中心人物、栗原安秀中尉の父、勇(元大佐)宅があり安秀中尉の私宅もすぐ近くにありました。
私の目当てはあくまで山下奉文宅(跡)だったので、残念ながら偕行社目黒住宅には行っていないのですが、細い道が続くところな上に栗原中尉宅は奥まった場所らしく、謀議にはちょうど良いところだったのだと。
実際、26日決行に決定した2月22日の謀議は栗原宅だったと、本人が憲兵の取り調べで述べています。

場面は秋だし、あくまで映画のシーンではありますが、こういう会議が私が探索したエリアで行われていたとは…私の歴史の掘り方が足りなかったようだ。
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