黒磯の遊郭跡を歩く
黒磯の遊郭跡の探索は、黒磯駅から始まります。
黒磯駅前の通りをまっすぐ歩き、遊郭へは少し奥まった道を通ることになります。その遊郭までの道は「新地仲通り」という名前がついており、Google mapにも掲載があります。「新地」必ずしも遊郭ではないですが、黒磯に関しては新地=遊郭と見なして良いようです。
新地仲通りには、上の写真のように飲み屋街のような建物があります。「クレオパトラ」が目に入ってきますが、どうやらその店は現存しないよう。赤線廃止跡の元遊里は、飲み屋街になっていることも少なくないのですが、こちらは遊郭とは距離が離れているので関係ないでしょう。
しかし、いかにも昭和40年代チックなこの建物のつくりも、遊郭の建物ではないけれども少し惹かれるものがあります。
その飲み屋ビルからまた北西の方向へ歩くこと数分、遊里跡へ。
上の写真の位置が大門があった場所、つまり遊郭の入口になります。
しかし、なんでそれがわかるのかって?
上の写真の道をよーーく見て下さい。ちょっと違和感を感じませんか?そう、道が一回り広くなっているのに気づきませんか?
道に線を引いてみました。
白線部分(一般道路)から赤線部分(遊郭内)に変わるところで、道幅が広くなっています。
ここにはかつて大門を示す柱が立っていました。おそらく、右側の電柱の場所か、少し手前あたりと思われます。
その電柱には、くっきりと「新地」の文字が!遊郭跡の電柱は「新地」と銘打たれたことが多く、これもここに遊郭があったという証拠の一つ。遊郭探偵の血潮が沸き立ち血圧も急上昇…と思いきや、冷静になって周囲の電柱をくまなく調べてみると、新地仲通りの電柱はすべて「新地」となっていました。つまり、関係ないっちゃ関係ない(笑
気を取り直し、十字になった遊郭跡の道路のもう一方を見てみると、道幅の違いは一目瞭然。道幅が不自然に広くなっています。これが道幅に残る遊郭跡の目印で、ここまで露骨なのは珍しいものの、遊郭跡を歩くと「周囲の道と比較してやけに不自然な道幅の広さの道」に遭遇することは、特に珍しいことではありません。
この不自然な道の広がりは、Google mapや国土地理院の地図にあらわれることもありますが、ここ黒磯ではそれが出ていない、つまり現地に行かないとこれがわからないということ。ここで、現地に実際に行ってみることの重要さが改めて身にしみます。
さらに、栃木県の決まりで、遊郭の道路は5間(約9m)以上でなければならなかったらしく、それが余計にこの道幅の不自然さを際立たせています。逆に言えば、栃木県の遊郭にはまず「9間以上の道」があったということ。これは栃木県の遊郭の位置特定に使えそうです。よく考えたら、宇都宮の遊郭、亀廓の道も、こんなに道幅要らんやろというくらい広かったよな…。
大門跡の前には、なにやら意味深なものが残っています。
意識しないと気づかないレベルで、民家と一体化しています。が、見る限りかなり古そうな碑のようなものです。
確かに何かの碑であるはずなのですが…風化が激しく文字がさっぱり読み取れません。
碑に顔を近づけるなど、どうにか読み取ろうとして、かろうじて、上部の右側が「路道」と読めることはわかりました。
あとはもうお手上げなので、先に書いていた方のブログ、栃木県那須塩原市黒磯遊郭跡地を歩くからカンニングします(笑
上の部分は「名芳附寄繕修路道(道路修繕寄付芳名)」と書かれており、側面には「発起者」として7人の名前が刻まれているようです。
石碑に刻まれた文言から、遊廓の道路を修繕した記念に作られたものだとわかりました。石碑には日付が明記されていないか、風化で読み取れない模様なので、いつの時代のものかは不明なものの、遊郭時代の遺構であることは明らか。意外な形で遊郭の残滓が残っていたことに、私のテンションは高まるばかり。
そして、石碑から道を隔てた向かい側には、意味深な建物が。
この蔵といい、やけに年季と風格があるレンガ積みの壁といい、これは元妓楼の可能性が高い。少なくても、ここが現役の遊郭だった時にも存在していた建物に間違いはないと思います。
蔵や家の跡には、家紋のように「寶(宝)」の文字が…。
そこで思い出してみましょう、
そう、昭和17年(1942)の地図に載っていた「宝来楼」の位置にあるこれ、まさしく「宝来楼」の建物であることがこれで確定ですね。
ところがこの元宝来楼、真正面から見ると、
本当にこれ妓楼か?
と思ってしまうほど、大きさを感じません。見た目はふつうの民家です。しかし、ここで勘が働いてGoogle mapを見てみると。
やっぱり…かなり奥まった造りになっていて、敷地面積自体もかなり大きいことがわかります。
現在は木々が生い茂っている場所は、もしかしてかつては庭だったのかもしれません。
元宝来楼の電話番号は、黒磯177番。
もしかして、この電話番号、昔と変わってない?
という仮説を胸に、県立図書館所蔵の電話帳をひもといてみると、宝来楼の電話番号は黒磯35番。177番ではありませんでした。もし117番だったら、これは面白い発見や!!!
となってたのですが、神様はそんなに甘やかしてくれませんでした(笑
「宝来楼」跡宅には、こんなポストがありました。
青銅色の見た目なかなかの年代物っぽく見え、もしかして妓楼の形見か!?と遊郭探偵のテンションは高まるばかり。
しかし、冷静になってよく見ると…”LETTER”という文字が。これは違うな…私の直感はそう述べていました。
そして後日…
全くの偶然ではありますが、白河で全く同じものを見つけてしまいました(笑
「遊郭・赤線跡をゆく」で取り上げた遊郭や赤線、私娼窟はすでに60ヶ所を超えていますが、黒磯はその中でも下位から数えた方が早いようなマイナー遊里です。そのせいで、最たる資料もないだろうからサラッと書いて終わるか…と思いきや、探せば資料が見つかるし、書けば長くなるものです。
遊郭の場所が那須なだけに、苦労急ぎはしなかった…お後がよろしいようで。
他の遊郭の記事はこちらもどうぞ!
・『黒磯町誌』
・『栃木県史』
・『全国遊廓案内』
・『栃木県警察統計表』
・『栃木県統計書』
・『栃木県下各地特設電話番号簿 昭和二年七月一日現在』
・『栃木県下各地 電話番号簿(昭和5年)』
・ブログ『栃木県那須塩原市黒磯遊郭跡地を歩く』様
など
コメント
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地元に住む者です。 30年ほど前に都会よりここに移り住みました。
この遊郭の話は地元の人から聞きましたが この土地に来てから土蔵の前を歩いただけで女性の声が土蔵より聞こえてきて察しました。
15-18年ほど前まで 現在正面の新しい民家(石碑のある家)が出来る前に 古い大きな三味線手配の宿風の事務所があり古くて立派な建物がありました。 資料館と書かれた新しめのパネルが事務所の前に設置されていましたが 遊郭との表現は無かったですが「風俗」的表記は有ったかもしれません。 石碑は2つあり、もう少し小さな丸いものが有ったような気がしましたが 新築時に撤去されました。 気味の悪い石でした。
比較的最近まで看板には三味線の教室だったように書かれてあったような気もします。
遊郭の話は大正末期にこの上客だった豪農の末裔の人です。
親が遊郭通いによって田畑を失ったと聞きました。
土蔵の横の家(赤い屋根の家)の裏には大きな木が茂っていてクロスする幅の広い道路には寺がありますがここの周囲は霊道となっていて私は昼間でも気味が悪くて通れません。
玄関前の変なポストと入り口の付近は排水が悪く腐ってリフォームされた様に思えます。安物のポストはホームセンターで売っている新しいものみたいです。
女性の声は蔵の下と木の方向から聞こえますが複数です。
9mの不自然な道幅の件はこの記事から納得です。