自他共に認める北東北の中心都市、盛岡。盛岡に近づくにつれ姿が大きくなる岩手山がどんとお出迎えしてくれます。
幼少期、盛岡を舞台にした漫画『六三四の剣』を全巻読んだほど好きだったため、盛岡とくればと真っ先に思い浮かぶのが岩手山。一度はこの目で見ておきたかった山の一つですが、実際に現物を見ると予想以上に大きく見えます。
盛岡には他にも用事があって参じたのですが、それはまた後で書くとして、本編はその盛岡にあった遊郭のお話です。
近世の盛岡の遊郭
盛岡は南部藩20万石の城下町であります。平安時代に坂上田村麻呂がここ盛岡に砦を築いたとされていますが、盛岡の歴史は南部藩が開いたと言っても過言ではありません。
その南部氏は、城下町盛岡の鎮守として17世紀後半の延宝9年(1681)、八幡宮を完成させました。八幡宮の参道沿いには、参拝客目当てに茶屋などが集まり歓楽街が形成されていきましたが、その中で自然発生的に遊女屋も生まれたのは必然でありましょう、次第に隠れ遊女屋が八幡町界隈に形成されていきました。これが八幡町遊郭の始まりです。
八幡町の隠れ遊里に対し、南部藩は実質黙認という形を取ったようで、19世紀まで表立った取り締まりなどはなく、隠れ女郎屋も八幡町の外にまで進出したそうです。
盛岡最初の遊郭-津志田
19世紀はじめ、藩は風紀の乱れを理由に遊女屋を移転するようお触れを出しました。
移転先は、城下よりかなり南にある津志田というところ。旧城下町(市街地)から遠く離れており、風紀上の理由により事実上の隔離ということでしょう。また、津志田の遊郭予定地は奥州街道沿いにあり、街道の活性化という目的もあったのかもしれません。
移転は「第一期」の文化7年(1810)から文政8年(1825)の15年間、「第二期」は嘉永3年(1850)から安政4年(1857)の7年間で、本来は田畑であったところを埋め立て、街道沿いに遊里が形成されることとなりました。八幡町にあった遊女屋はすべてここに移されました。
なぜ2期に分かれているかというと、藩命で移転したのに文政6年(1823)には「差支」の命により女郎屋は廃止、取り壊しになり田畑に帰したものの、嘉永3年(1850)には再び旅籠や女郎屋が集まる集落になったから。
しかし、第二期も安政元年(1854)には再び「差支」により遊女屋は禁止され、3年後には元の地主たちから田畑に戻すよう嘆願書が出されたこともあり、万延2年(1861)にはすべてなくなったと推定されます。
津志田の遊里に関しては、詳しく書いていくと長くなる上に、実際に現地に行ってきたので別記事にて書いていきたいと思います。
近代以降の盛岡の遊郭-八幡町遊郭の成立
明治10年(1877)、貸座敷娼妓取締規則の制定(坤第62号)により、県の貸座敷指定地14ヶ所が指定されます。その中に盛岡八幡町があり、津志田にいったん移された遊女屋が再びここに戻ってきました。
明治初期には26軒の貸座敷が存在していたものの、明治17年(1884)、「河南大火」と呼ばれる盛岡の大火が起こり、八幡町は灰燼に帰してしまいました。妓楼もほとんどが焼けたそうです。
が、火事ごときで衰える遊郭ではない。娯楽が多様化していない明治時代なので、遊び場はすぐに回復し八幡町はますます発展を遂げました。
また、八幡町は遊郭と花街が混在した繁盛場で、花街としての八幡町は「幡街」と呼ばれていました。盛岡には県庁など官公庁に近い区域にもう一つの花街があり、そこは本町という町名にちなんで「本街」と呼ばれていました。
夜になれば八幡町は盛岡でいちばん明るく賑やかな町だったンです
当時を知る古老の回想です1。
そんな時代に、「玉楼」という妓楼がありました。読みは「ぎょくろう」なのか「たまろう」なのかはわからなかったのですが、後の情報で後者なことが判明しました。
第一から第三まである八幡町遊郭の系列店で、第一玉楼の楼主にて玉楼を束ねた大村タマという女将がいました。「玉」も自分の名前からとられたのでしょう。
札付きのヤクザもこの女傑にはかなわないというほどで、新聞のネタになるようなことも数多かったそうです。
彼女は、現在の護国神社のあたりに「大村園」という遊園地2を作り、そこに自分の銅像を作ってしまいます。その銅像は大好きだった犬を連れたもので、「西郷さんの銅像かと思ってた」という地元の人もいた姿でした。
その銅像は永らく公園に鎮座していましたが、大東亜戦争の金属供出で持ち出され、「タマが弾になった(笑)」と地元でささやかれたそうな。
八幡町の賑わいは、軍隊の影響も大きかったことは確かです。
「軍隊あるところ遊郭あり」は近代遊里史の鉄板ですが、軍隊なんて基本は「食う・寝る・ヤる」しか娯楽がなく、日曜日の外出日には思い切り羽を伸ばすことになりますが、その主な場所が遊郭でした。
軍隊にとっては、私娼に手を出して性病を伝染(うつ)され「戦闘不能」になるより、遊郭に行ってもらう方がよほどよろしい。遊郭にとっても、兵隊さんはマナーも金離れも良く、仮にやんちゃなのがいても憲兵が来れば借りてきた猫よりおとなしくなる。妓楼からしたらこれほどの上客はおらず、軍隊と遊郭はWin-Winな関係でした。
盛岡には騎兵第三旅団(二十三・二十四聯隊)と、弘前から移ってきた工兵第八大隊があり、日曜日の外出日の八幡町には兵隊たちが大量に訪れ、「まるでお祭りみたいなンです」3と、軍隊さまさまだったことを地元の古老も認めています。
貸座敷には一流から三流までのランクがあったようで、一流には下士官の曹長クラス、二流で軍曹、兵隊は三流どころと見えない境界線があったそうです。
差別だと見るむきもありますが、二等兵が一流か二流に入って上官と鉢合わせたら、そりゃあお互いバツが悪い。海軍の料亭・待合は入り口は同じでも、ペーペー尉官と提督が鉢合わせないよう芸者や女将も気を遣っていた話もあるので、そういう意味での「棲み分け」だったと私は思っています。
八幡町遊郭の賑わいは、大正後期くらいまで続いたと地元の古老の回想にあります。統計書の数字を見てもピークは大正時代の1920年前後で、記憶に間違いはないようです。
しかし、ここで「天敵」があらわれます。
カフヱー(カフェー)の登場です。
全国の遊郭・花街をことごとくオワコン化させた風俗産業の超大型新人カフェーは、大正後期に盛岡に上陸。瞬く間に盛岡を席巻しました。
資料に具体的な記述はありませんが、カフェー旋風が遊郭を圧迫したのは確かなようで、統計書の客数・売上の数字が昭和に入りガクンと下がっています。貸座敷・娼妓数はさほど変わっていないものの、客数・売上は大正末期の半分近くに下がっています。かなりの数がカフェーに流れたと思われます。
支那事変の大量動員による「筆おろし」で昭和12年以降は戻ったものの、それまでの約10年はまるで氷河期のように凍り付いています。
遊郭移転命令
遊郭が衰退した理由はカフェーだけではなく、明治期からくすぶっていた廃娼の声が、大正・昭和と日増しに高まったこともあります。
そんな逆風の中、八幡町の遊里にもその波がやってきました。
昭和3年(1928)11月、岩手県は八幡町遊郭の移転計画を発表します。場所は盛岡市大字東中野字茶畑ならびに同字百目木の、通称「さきかち坂」と呼ばれたところ。具体的には現在の八幡宮と護国神社の北側、八幡町と山王町の境界周辺となります。
現在の「さきかち坂」は、昔は存在しなかった盛岡市街地と国道4号線をつなぐバイパス道路が通っています。しかし、名前の通り「坂」になっています。
ここは岩手県があらかじめ別用途にて土地を購入済みであり、そこに芸娼混在型だった八幡町遊郭の娼妓だけを分離させようとしたのでしょうか、県議会でも可決されあとは行動というところまで進みました。
が、やはり廃娼の動きの中で計画は頓挫し、結果的に遊郭が別に移ることはありませんでした。
遊廓移転騒ぎと関連したのかは不明ですが、遊郭跡探偵には必須参考書となる『全国遊廓案内』には、八幡町の記載が全くありません。
芸妓との混在地だったせいもあるでしょうが、編者はどんな基準で盛岡を抜いたのか。『全国遊廓案内』の謎として現代への宿題になっています。
戦後の八幡町
八幡町は戦後も赤線として残ります。
いつもの『全国女性街ガイド』には、盛岡をこう描写しています。
赤線の方に情緒があり、焼けずに残った八幡町の沢田屋を取り巻き福錦、松葉など二十件に九十名。夕暮時はねずみ啼きもきこえようとしう格式あり。襖を開けるとき「おもしわげなゴザンス」といって入る風情は格別で、さすが東北の京都の風格がある。(以下
引用:『全国女性街ガイド」p37
著者氏、盛岡をかなり誉めています。しかも、この数字が間違いではなければ、遊郭時代のピークの数字(昭和4年:20軒87名)を超える繁盛ぶりです。
全国の赤線の営業形態は、カフェーだったり待合(貸席)だったり場所により様々ですが、八幡町赤線の営業形態は「簡易旅館」でした。なるほど、旅館の仲居として接待婦を常駐させ、客と従業員が「お互い一目惚れして合体」というタテマエか。
岩手県の赤線は、岩手県と赤線業者との話し合いの末、売春防止法全面施行前の昭和33年(1958)2月末で解散ということとなりました。3月末までやるぞと抵抗していた八幡町も2月末で営業を終了、翌3月1日に解散式が行われ、江戸時代から続いた色街としての歴史に幕を閉じました。
解散時、17軒の業者と63人の接待婦が残っていましたが、赤線最後の性病検査で37人が性病持ちだったという、なんとも後味の悪い最後になりました4。
コメント
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