100円均一ショップ(以下100均)は、現代ではすっかり我々の生活に密着しています。100均なしの生活は、もはや考えられないでしょう。
最初は安かろう悪かろうだったものが次第に質も良くなり、100均の王者ダイソーは、DAISOとして海外でも名を知られブランド化しています。
現在の100均が世に現れたのは、1980年代のこと。当時は鳴かず飛ばずだったそうですが、1990年代からの不況と共にその勢力を伸ばしていきました。
かのダイソーが店舗をオープンしたのは1991年のこと。創業者の矢野博丈が「安かろう悪かろう」の代名詞だった100均商品の質に目をつけ、質を上げることによりユーザーの信頼を得て、数ある100均勢力の頂点に上り詰めました。
ところで、品揃えの豊富さ、チェーン店展開、そして値段の均一を武器にして全国を制覇しようとした「元祖100均」が、戦前に存在したことはご存知でしょうか。
それも、意外や意外のあの会社がやっていたことを。
戦前版100均ショップ-『均一ストア』
大正末期から昭和初期にかけて日本は先の見えない不景気時代に入り、昭和の時代は不景気のドヨーンとした空気の中、スタートしました。
しかし、ピンチはチャンスなりとも言います。ある老舗百貨店が、これはチャンス!と新しい分野に手を染めようとしました。それが…

(提供:Logovaults様)
高島屋です。
大正15年(1926)、長堀にあった大阪高島屋にテストとして「10銭均一コーナー」を設けました。
これが好評だったために、徐々に種類を増やし、昭和5年(1930)の南海店(南海難波駅)仮オープンの際、地階と2階の一部を「10銭均一コーナー」として改造しました。値段はすべて10銭均一で、まずは既存店舗を使って客の食いつきを試そうという魂胆です。
昔気質の大阪の商売人は、
「そんな薄利多売、努力の割には儲からんのとちゃうか?」
と生温かい目で見ていたのですが、ところが予想に反し、
「大阪の小売業界へ多大のセンセーションを捲き起こした」1
というほど大繁盛となりました。

(写真:高島屋公式HPによるとオープン当初の野田阪神店らしいが、私の資料では「新開地店」)
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(写真:大正橋店 『高島屋135年史』より)
これで気を良くした高島屋は、同年8月30日に野田阪神と大正橋店をオープン。続けて関東にも進出し半年で12店舗もの店を一気にオープンさせました。
そして翌年、20銭の品物も追加され7月には「10銭20銭ストア」に改名されました。さらに翌年、50銭商品も追加され「10銭20銭50銭ストア」という、なんだかとりとめのない名前になりました。

(『高島屋135年史』より)
野田阪神店ですが、ライトアップされた店の看板に「高島屋10銭20銭50銭ストア」と書かれています。こちらが均一店としての「最終形態」でした。
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(『高島屋135年史』より)


(『写真心斎橋』より)
上の3枚は心斎橋筋商店街にあった心斎橋店の内部です。化粧品やその用具まで置いていたことがわかります。

どこの店かは不明ですが、当時の均一店の風景です。「10銭ストア」なので昭和6年か7年前半期のものです。品物に殺到してごった返している店舗の様子がよくわかります。
店員は、当時流行の「ショップ・ガール」とばかりの女性を採用していました。が、均一店は夜9時10時までの営業が多く、「徒歩あるいは乗物で通勤時間が20分以内の人」が基本的な条件だったそうです2。
なお、昭和6年7年にオープンした店舗一覧を表にまとめました。


高島屋の大戦略-チェーン店
「均一店」はそもそも1920年代のアメリカのウールウォース社が全国展開していた「50セントストア」を真似しただけなのですが、高島屋が均一店で狙っていた戦略、それは均一店自体のことではありませんでした。
実は、均一店自体は、『十銭均一店と其の仕入研究』(1931年刊)によると、「10銭均一店」は1910年代(大正5~6年)には既に存在していました。が、すべて個人商店が小規模に行ったもので、大型店が手を出すのは高島屋がはじめてのことでした。
高島屋が本当に日本に浸透させたかったもの、それは「チェーン店」。
今でこそ、スーパーやコンビニ、ドラッグストアなど、小売店のチェーン店など珍しくなく、むしろ個人商店を食っていき町の個性がなくなっていっているほどです。が、その先陣を切ったのが実はこの均一店。

米国にチェーン店ってシステムがあるらしいで!
そんな情報を得た高島屋は早速幹部をアメリカに派遣し、チェーン店のイロハを学び日本に投入しました。
その戦略のもと、関西を皮切りに最終的には「全国チェーン」を展開する…それが高島屋が描いていた青写真でした。

(昭和8年1月31日『大阪朝日』-神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ新聞記事文庫所蔵)
当時の記事にも「チェーン店」ということが強調され、デパートという巨大母艦に対する「豆戦闘艦」というあだ名もささやかれました。均一店の怒濤の如き展開で、「全国制覇」も時間の問題でした。
が、その戦略に待ったがかかりました。高島屋はデパートのギルドである日本百貨店協会にあれこれ難癖をつけられた挙句、新規出店を「自粛」させられ勢いは急ブレーキがかかりました。日本社会のお家芸、「出る杭は打たれる」が炸裂しましたな…という感想しかありません。
それから数年、日本初のチェーン店は成長を無理やり止められることとなり、昭和13年(1938)に均一店を子会社化するまで続きます。
均一店、何が売られていたのか
ところで、戦前の均一店には何が売られていたのでしょうか。
昭和10年11月27日付『東京日日新聞』には、「アメリカのウルウォースの5000種には叶わないが」としながらも、「三千種の商品を取扱い」とあります。
ダイソーの取り扱い商品数が70,000点、セリアが同20,000点なのに比べると3,000点は10分の1、大した数字ではありません。が、戦前で3,000点はなかなか多い方だったと思います。
上記記事には、当時の均一店の売れ筋商品が書かれています。
2.靴下、パンツなど洋物下着
3.石けん、歯磨き粉、歯ブラシなど日用雑貨
現在の100均はどうかわかりませんが、売れ筋はそんなに変わっていないのではないかと思います。
また、

こんな商品開発したんやけど、店に置かせてもらわれへんやろか?
という売り込みが均一店事業部に殺到したり、10銭20銭という縛りの中での商品開発はなかなか苦労が多かったそうです。

(『十銭均一店と其の仕入研究』より)
均一店の繁盛と共に、均一店用商品を取り扱う業者も現れました。日用雑貨から足袋・靴下、文具などさまざまな問屋の広告が資料には掲載されています。原価はだいたい5銭~7銭だったようで、かなりの薄利多売だったようです。
本邦初公開!?当時の店トップ5
資料には、昭和10年(1935)の全国店舗のうち、成績(売上)と利益率が良い店トップ5を明らかにしています。それによると以下の通り。
売上トップ5

1.南海店(難波駅)
:単独店舗ではないものの、1階をまるまる均一店コーナーに。売上全体の約11%を占める
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南海店の店内の様子。食器などの陶器類売り場です。

(『高島屋135年史』より)
2.渋谷駅前店
:文字通り渋谷駅前にあり関東方面の旗艦店。売上占有率約5%

3.奈良駅店
:大軌奈良駅(現近鉄奈良駅)前

4.神戸新開地店
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(『高島屋135年史』より)
5.京都四条河原町店
利益率
1.南海店
2.渋谷駅前店
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(『高島屋135年史』より)
3.蒲田店(東京)
:売上は第7位

4.足利店(栃木県)
:売上は11位

5.武蔵小山店(東京)
:売上第10位
戦争の陰-さらなる発展
出る杭は打たれるとばかりに百貨店協会から「自粛」を求められた高島屋均一店、売上は順調なものの、均一店が百貨店直轄事業である以上、新規出店ができない。そうであれば独立(分社化)すればいいと、圧力がかかった翌年から模索していました。
そんな中昭和12年(1937)10月、デパートの営業を午後6時までとする「百貨店法」が施行されました。
当時のこんな新聞記事があります。

(昭和13年1月10日『神戸新聞』-神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ新聞記事文庫所蔵)
百貨店の一部門である均一店も「夜6時閉店」の法の網にかかり、以前は夜10時まで営業していた神戸新開地店などの売上が響いているという記事です。新開地店は夜がいちばんのかき入れ時だったそうで、均一店店長も「売上半減、こんなん商売になりまへんわ(涙)」と青息吐息な状態でした。
が、そんなことを見越したか、高島屋は数年間練りに練って秘蔵していた「奥の手」を投入しました。
高島屋は満を持して均一店を分社化、「丸高均一店」として独立させます。これだと百貨店にはあたらず百貨店法の適用外。しかも百貨店協会の圧力で不可能だった新規出店も大手を振って行うことができます。
昭和14年からは大阪・東京に続けて名古屋本部も設置され、夢の「全国チェーン」に向けてスパートをかけます。


今まで止められていた分、堰を切ったように出店ラッシュが続いていることがわかります。
高島屋の社史にも、昭和15年~16年が黄金期と記しており、店舗は3府(東京も「府」)14県、従業員数2100名以上と数字も最高を迎えました。
ところが、時代が悪かった。
昭和17年(1942)に株式会社丸高と名称を改めるも、世は戦争まっただ中、物資不足はこちらにも影響しました。物資不足によりもはや均一販売などできず、商品数も店舗数も縮小、昭和19年(1944)頃に自然消滅という形で終焉を迎えました。その時の従業員数は869名、そして戦災で残った店舗はわずか17店。均一店の栄華、そして日本初のチェーン店の夢は消え去りました。
戦後ーその後の丸高ストア
戦後の均一店は、戦災で残った店舗を利用して「丸高ストア」を開設しました。が、戦前の均一店の形態ではなく、ただのスーパーマーケットとして。日本初の全国チェーン店の野望はどこへやら、のちに「高島屋ストア」と改名し、ごくふつうのスーパーの店生(?)を歩みました。
私が物心ついた時にも「高島屋ストア」は存在していたのですが、親や祖母は「まるたか」と言っていました。高島屋がなんで「まるたか」やねんと不思議に思っていたのですが、このブログで歴史を調べて初めて謎(?)が解けました。
ちなみに、九州を中心に展開するスーパー「まるたか生鮮市場」は何の関係もありません。
そして2003年、高島屋ストアはイズミヤに買収され「デイリーカナート」へ改名、ダイソーなどの「後輩」の活躍を横目にしながら、「均一ショップ」のパイオニアとしての暖簾を下ろしました。
ちなみにデイリーカナートは大阪を中心に現存しており、関西、というか大阪の台所として地元民に親しまれています。

こんな記事もあります!よろしければどうぞ!
・『高島屋十銭二十銭ストアに就いて』(商工省編 1936年)
・『十銭均一店と其の仕入研究』(仕入案内社 1931年)
・『高島屋四十年史』(高島屋 1937年)
・『高島屋135年史』(高島屋 1968年)
・『写真心斎橋』(心斎橋新聞社 1935年)
・『開業五十年』(南海鉄道編 1936年)
・Wikipedia
・DAISOホームページ
・Seriaホームページ




