大阪の遊郭と空襲-飛田新地は燃えたのか?!

大阪の遊郭と空襲、飛田新地は空襲で焼けたのかまとめ記事
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大阪の遊郭の空襲被害

先の戦争時、周知のとおり大阪も空襲の被害を受けました。大阪府全体で死者12,620人、行方不明者2,173人だと言われ1、一説によると15,000人を超えているとも言われます2

大阪の空襲については様々な側面から様々な形で語られていますが、果たして遊郭の被害はどうだったのか。ネットで調べても確たる資料がありません。

ならば、私の出番。誰も書いてないなら私が書こう。
ここで大阪の遊郭の被害について、ざっくりですがまとめていきます。最後に、「焼けた」「いや、焼けていない」と情報が錯綜する飛田新地の被害についてもまとめます。

新町遊郭

新町と言えば、規模こそ松島や飛田には及ばなかったものの、古さと格式にかけては東の横綱吉原に負けないほどの超老舗。西の張出横綱的な位置に君臨していました。
今も地下鉄四つ橋線の四ツ橋駅の北に「新町」の地名が存在していますが、そこの1~2丁目の場所にありました。

大阪大空襲で焼ける前の新町の遊郭

昭和17年(1942)の航空写真ではこうなっていますが、戦争が終わった後はどうなったでしょうか。

大阪大空襲で焼けた新町の遊郭

終戦から3年後の昭和23年(1948)の航空写真ですが、新町の名物でもあった演舞場建物のでこなど一部の建物を除いて、昭和20年3月の空襲でほぼ焼き尽くされました。焼失ならぬ「消失」でした。

堀江遊郭は、その新町の長堀川を隔てた向かいにあった遊里で、遊郭となっているものの昭和初期には芸妓が圧倒的多数を占める花街でした。
その堀江遊郭も、新町と同日に「消失」となり、焼け野原となっています。

同日の空襲で、現在の南海難波駅の北側から道頓堀界隈にあった「五花街」も全焼しています。

港新地

港新地とは、昭和初期に現在の港区朝潮橋に作られた花街でした。花街といっても花街を隠れ蓑にした新興遊郭で、営業形態は「特殊(・・)料理店」。「特殊」って何やねんというのはお察し。

港新地は、昭和20年6月1日の空襲で全焼しています。

この空襲では港新地どころか港区自体が焼き尽くされ、焼失率は90%以上という酷さ。昭和15年(1940)には322,231人いた人口が、終戦直後の11月には8,672人に。この人口激減ぶりが港区の被害そのものをあらわしています。

空襲で焼けた港新地

赤で囲んだ範囲が港新地のはずですが、あまりに焼け尽くされていて場所の特定が困難です。道筋を目印にしようにも、港区は直線道路ばかりでこれだけ焼けると目印がない始末です。
なお、港新地は跡形もなく焼けてしまいましたが、戦後に元の場所で復活。昭和33年(1958)の売春防止法完全施行前まで営業を続けていました。

港新地の詳細はこちらをどうぞ。

お次は日本最大規模だった松島遊郭や府下の遊郭の状況を書いています。

また、飛田遊郭は実際に焼けたのか!?焼けてもどこまで焼けたのか!?

詳細は有料記事となります!

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