【前編】飛田新地(大阪市西成区)-消えた遊郭・赤線跡をゆく

大阪飛田遊廓 遊郭・赤線跡をゆく
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飛田遊郭と阿部定

元号が大正から昭和に変わった1927年頃、飛田に流ちょうな東京の下町言葉を話す一人の女が流れてきます。
彼女は「飛田遊廓の沿革」に「一流妓楼である特大店」の筆頭とされている「御園楼」で、「園丸」という源氏名で働くことになります。

彼女の本名は阿部定。かの阿部定事件の本人です。
彼女の前借金は当時の2,800円と記録にありますが、「飛田遊廓の沿革」によると阿部定とほぼ同時期の飛田遊廓の遊女の平均前借金は約1,500円、最高は「巴里」にいたという”巴弥”の4,800円。
阿部定の前借金は平均の倍近く、遊女としては「上玉」だったことが伺えます。
ここじゃ売れっ子になって身請け話も出たそうですが、ここまでが阿部定の人生のピークでした。その後、逃走などのトラブルを繰り返した挙句、1年後に飛田から失踪。ここから彼女の人生は坂を転げ落ちるように下降線をたどり、全国各地を逃げるよう転々とすることになります。

阿部定はその後、飛田時代のことをこう書いています。


「御園楼」は、当時大阪で一流でした。私も売れて※三枚と下りませんでした
その頃から、私は客を相手にするのが厭でありませんでしたから、抱主からも可愛がられて御園楼では面白く働きました。一年位経った頃、ある会社員の客が私を落籍してくれることになりましたところ、その人の部下も私の客であることが判ってその話は駄目になり、客から勘忍してくれと言われ金を貰った事がありました。それで、少し腐っているところへ紹介屋から話があって、翌年早々23歳の時、名古屋市西区羽衣町の「徳栄楼」に借金2600円で住み替えました。ここに移る時は、その抱主は丸ぽちゃの可愛らしい女を希望していたそうです。
私は面長でどちらかと言えば伝法肌の女であり、紹介屋から是非抱えて呉れと頼まれて抱えることになったらしいのです。当時、その事情を知らない私は抱主が内儀さんに仕方なく抱えたんだ、名前などは何でもいいと話しているのを耳にし、私を抱主が気に入らぬのなら気に入らせて見せるという気になり、貞子という源氏名で一生懸命働きました。
それから売っ子になり可愛がられるようになりました。
※売れっ子ナンバースリーから下がったことがない、という意味
(阿部定の尋問調書より。原文はカタカナ混じ)

阿部定といえば、阿部定事件の猟奇的なイメージしかありません。が、手記を見るとけっこう頑張り屋さんなんやな、ということがひしひしと伝わってきます。彼女が数々のオスを惹きつけたのも、フェロモン以外にも上記の面があったからだと感じます。男って理屈抜きでこういう女を応援したくなるんですわ(笑

 

さて、阿部定がいた「御園楼」はどこにあったのか?

昭和16年(1941)の大阪市内の電話帳によると、当時の住所で住吉区山王4-23とあります。あの「百番」は「山王4-25」で掲載されているのですが、御園楼は「百番」のすぐ近くにあったと。阿部定も「百番」の前身の妓楼を毎日眺めていたのかもしれません。

昔の番地付き地図などを駆使して調べた御園楼の場所は!

飛田遊廓航空写真御園楼

「山王4-23」はここ、確かに黄矢印の「百番」と目と鼻の先のご近所でした。
御園楼は「飛田一の大妓楼」と言われていた規模だったので、おそらく23番地(赤塗り部分)まるごと妓楼だったのでしょう。

 

御園楼

『日本歓楽郷案内』にあった御園楼の写真です。下の写真で御園楼の電話番号(戎五八八)も判明しますが、こちらを昭和初期の電話帳と照合すると!

阿部定がいた御園楼飛田
(『京阪神職業別電話名簿. 昭和9年9月』より)
「0588」と写真と一致します。写真の方は古い番号、つまり写真自体が古いようです。

この御園楼、戦後すぐの航空写真で確認すると、23番地はきれいさっぱりな更地と化していました。おそらく昭和20年3月の空襲で焼けたのだと思います。その後、昭和31年(1956)の住宅地図でも更地のままなので、戦後は復活しなかったか、楼主が別遊里に移動したのでしょう。現在、この位置は駐車場となっています。

 

飛田遊郭の「衛星」-「オカマ」の故郷

遊郭界の木星が松島なら、飛田はさながら土星ですが、木星や土星に様々な衛星があるように、遊里にも衛星のような非合法の私娼窟が、「おこぼれ」をちょうだいするかのように周囲に形成されていました。私は「衛星型私娼窟(青線)」と造語で表現しています。
「衛星」は、戦後の赤線時代であれば山谷(「惑星」は吉原)、歌舞伎町(同新宿遊廓)などがありましたが、飛田の「衛星」でもあった山王界隈は戦前からの歴史があり、かつちょっと変わった所でもありました。
それは…「男娼のメッカ」だったこと。
今の釜ヶ崎(あいりん地区)は「日雇い労働者の町」ですが、昔は「男娼の町」でした。それも、資料によるとその歴史は大正後期にまでさかのぼることができます。
詳しくは別記事で書こうと思いますが、女装した男の「オカマ」という言葉は、一説によると「釜ヶ崎」から来たとも言われとります。
「釜ヶ崎の男娼→釜(カマ)→女装した男(オカマ)」という流れで、「オカマ」の語源は定かではないですが、「女装した男」の発祥地が釜ヶ崎なのは文献からはほぼ確定です。

この釜ヶ崎の「オカマ」文化は戦後も残っていました。
にわかには信じがたいですが、こんな人がこんなことを書いていたら、説得力は数百倍増すことになるでしょう。

好きものの旅行者たちが、新世界・飛田周辺を歩いてひどい目にあった、という話をときどき聞く。
むりもないのだ。背のすらりとした美人に言い寄られてしかるべく交渉して、いざ寝てみると男だったというのである。
この界わいは男娼が多い。かつては、もと陸軍軍曹やもと海軍少尉の男娼もいた。かれらは、戦場で鍛えた勇気もあり、腕力もあった。客が気づいて、
「モノが違うやないか」
とひらきなおっても、腕では負けていなかった。当然、かれらが受け取るべき正当の代価を取り上げた。
べつに私はかれらを悪いとは思わない。間違う客のとんまさに責任がある、というのがこの界わいの論理なのだ。
司馬遼太郎 昭和36年12月のエッセイより

司馬遼太郎がまだ無名だった昭和36年のエッセイの一節です1
それも、すべて現在形で書かれているということは、紅い灯が消えた昭和36年でも釜ヶ崎が「現役」だった間接的な証拠でもあります。
司馬遼太郎がオカマに興味あったとか、実は好きものやったとかではないのですが、地元民として知ってるくらい、釜ヶ崎の男娼は有名だったということなのです。

司馬遼太郎がこれを書いた全く同じ時期、大阪府警が釜ヶ崎を調査しています。それによると、売防法でクリーニングされたはずなのに、まだ男娼が100人近くいたというデータがあります。
男娼のメッカ大阪…学校では絶対に習わない「大阪の裏歴史」です。

 

戦争と飛田

飛ぶ鳥を落とす勢いで成長し続けた飛田も、昭和12年(1937)から日本は戦争の泥沼にはまって「贅沢は敵だ」の時代へ。「高度経済成長」もここまでで、昭和13年からは国内情勢に比例するように下がっていきます。
松島に同じく、戦争に行く兵士で賑わって一時的な「バブル」になったとは思われますが、全体的な風紀取締の紐がキツくなる一方の時代、遊郭も商売を縮小せざるを得なくなりました。

昭和13年(1938):2,911人
昭和14年(1939):2,706人
昭和15年(1940):2,534人
(※昭和15年松島遊廓の娼妓数:2,569名)出典:『大阪府統計書』

2000人以上はいるとは言え、昭和12年をピークに数字は減少、「戦争」が陰を落としていることがわかります。

1942飛田遊廓航空写真

上に挙げた昭和17年のこの写真が、完全体としての飛田新地の、上空からの「遺影」となります。その後昭和20年3月13日、「飛田新地の『嘆きの壁』を探して」で以前説明したとおり、大通りの南部が戦災で焼けてしまいます。

そして戦後…といきたいところですが、ここまでで予想以上のボリュームにつき戦後編は後編をどうぞ↓

 


・『大阪府統計書』
・『大阪市史』
・『上方 第廿八号』-飛田遊廓の沿革-
・『上方色町通』
・『日本歓楽郷案内』
・『大阪府立難波病院要覧』
・『司馬遼太郎が考えたこと 2』-にせもの-
・『松島新地誌』
・『全国遊廓案内』
他多数

 

飛田新地にまつわる書籍はこちら!
  1. 彼の名を全国区にした出世作『龍馬がゆく』の連載が始まったのが昭和37年

コメント

  1. 今井清賀 より:

    台湾ブログから飛んできました。初めて訪問させて頂きました。
    電話帳と地図を使っての綿密な考証に引き込まれて、飛田最後の記事まで一気に読ませて頂きました。
    私儀、飛田遊郭の成立について、1902年の大阪万博開催を理由に名護町から退去を余儀なくされた江戸期からの貧民が、堺筋を南下したところにあった「字釜ヶ崎」の木賃宿に流出。既存の宿では収容人数を抱えきれないことから、商機と見た者たちによって木賃宿が急増。集住した男たちの労働力に目をつけた資本はマッチ工場を誘致。労働者化された男たちの、滾るエネルギーと賃金(現金)の交換の場(「情」と言うものを排除して考えると「市場」)として隣接地区に設置されたのが飛田と言う認識をしております。
    ただ、店の位(くらい)付け・変遷、同業者の紐帯状況、あるいはお姐さま方の出身地・年齢・人数、出入りの状態、料金設定など飛田内での詳細事項については認識しておりませんでした。お恥ずかしながら、阿部定が飛田にいたことも…
    記事を読ませて頂き、これらのわからなかったいくつかの点について納得がいきました。ありがとうございます。

    私台湾についても興味があり、また大阪南部(難波〜岸和田あたりの泉州)にも興味を持っている、知りたがりのオヤジです。日曜日の午前、こんな面白いことを書いている方を見つけた!と、フォローさせて頂いた次第です。他の記事も読ませて頂きます。
    ※ところで、年表中「大隈重信国民層」とありますが、「国民葬」ですよね

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