大阪の遊郭と空襲-飛田は燃えているか|おいらんだ国酔夢譚|

大阪の遊郭と空襲関西地方の遊郭・赤線跡

先の戦争時、周知のとおり大阪も空襲の被害を受けました。大阪府全体で死者12,2620人、行方不明者2,173人だと言われ1、一説によると15,000人を超えているとも言われます2
大阪の空襲については様々な側面から様々な形で語られていますが、果たして遊郭の被害はどうだったのか。ネットで調べても確たる資料がありません。

ならば、私の出番。誰も書いてないなら私が書こう。
ここで大阪の遊郭の被害について、ざっくりですがまとめていきます。最後に、「焼けた」「いや、焼けていない」と情報が錯綜する飛田新地の被害についてもまとめます。

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大阪の遊郭と空襲被害

松島遊郭

松島新地は現在こそ飛田の後塵を拝していますが、戦前は遊女数、遊客数、年間売上日本一の三冠王を誇った日本最大の遊郭でした。

そんな「遊郭界の木星」も、昭和20年3月14日(3月13日深夜)の空襲によりすべて焼失しました。松島新地の歴史を綴った公式歴史書『松島新地誌』には、空襲直後と思われる写真が掲載されていますが、

戦災後の松島遊郭桜筋

「青楼500軒」と呼ばれた松島はどこへやら。これは焼失というより「消失」と表現した方がふさわしい。
当時でも1000人近くの娼妓がここで働いていたと言われていますが、松島を囲む木津川・尻無川には着物を着たたくさんの女性の死体が浮いていたと当時の回想にあります。
近くにあった新町・堀江遊郭の芸妓だった可能性もありますが、証言だけを見ていると、『松島新地誌』にある「娼妓の死者10人程度」とはかけ離れています。本当はどうだったのか。それは墓の中の業者のみぞ知る。

松島遊廓の詳細は下のリンクをどうぞ。

新町遊郭

新町と言えば、規模こそ松島や飛田には及ばなかったものの、古さと格式にかけては東の横綱吉原に負けないほどの超老舗。西の張出横綱的な位置に君臨していました。
今も地下鉄四つ橋線の四ツ橋駅の北に「新町」の地名が存在していますが、そこの1~2丁目の場所にありました。

大阪の新町遊郭航空写真

昭和17年(1942)の航空写真ではこうなっていますが、戦争が終わった後はどうなったでしょうか。

大阪新町空襲

終戦から3年後の昭和23年(1948)の航空写真ですが、新町の名物でもあった演舞場建物のでこなど一部の建物を除いて、昭和20年3月の空襲でほぼ焼き尽くされました。松島と同じく「消失」でした。
堀江遊郭は、その新町の長堀川を隔てた向かいにあった遊里で、遊郭となっているものの昭和初期には芸妓が圧倒的多数を占める花街でした。
その堀江遊郭も、新町と同日に「消失」となり、焼け野原となっています。

同日の空襲で、現在の南海難波駅の北側から道頓堀界隈にあった「五花街遊廓」も全焼しています。

港新地

港新地とは、昭和初期に現在の港区朝潮橋に作られた花街でした。花街といっても花街を隠れ蓑にした新興遊郭で、営業形態は「特殊(・・)料理店」。「特殊」って何やねんというのはお察し。

港新地は、昭和20年6月1日の空襲で全焼しています。
この空襲では港新地どころか港区自体が焼き尽くされ、焼失率は90%以上という酷さ。昭和15年(1940)には322,231人いた人口が、終戦直後の11月には8,672人に。この人口激減ぶりが港区の被害そのものをあらわしています。

大阪港新地写真

赤で囲んだ範囲が港新地のはずですが、あまりに焼け尽くされていて場所の特定が困難です。道筋を目印にしようにも、港区は直線道路ばかりでこれだけ焼けると目印がない始末です。
なお、港新地は跡形もなく焼けてしまいましたが、戦後に元の場所で復活。昭和33年(1958)の売春防止法完全施行前まで営業を続けていました。

港新地の詳細はこちらをどうぞ。

今里新地

今里新地

今里新地は、今も「現役」であるゆえに知名度は高めの新地です。ここが設立されたのは昭和5年(1930)、「芸妓居住指定地」としての開設でした。が、実際は「花街」と看板を掲げた「新興遊郭」。実際に芸者もいましたが、羊頭狗肉の商売でした。

今里新地は、当時の大阪市の郊外につくられましたが、空襲の被害からは逃れることはできず、6月15日に起こった空襲で少なからず被害は受けたようです。『松島新地誌』にも、今里は全焼ではないものの一部焼けたと記されています。

今里新地の航空写真昭和23年

昭和22年(1947)の航空写真で確認してみると、今里周辺は終戦から2年経っても家もロクにないほど焼き尽くされたものの、新地花街の部分は一部を除いて焼けていません。
この写真から見るに、「一部焼けた」ことは事実なものの、全体を考えれば「ほぼ無傷」と言ってよいでしょう。
しかし、新地の部分だけ、計算されたが如くきれいに焼け残ったもんやなという感も否めないですが…。

堺の遊郭(龍神・栄橋、乳守)

大阪市の南、仁徳天皇陵のある堺市は、かつて東洋のベニスと西洋の宣教師に驚愕をもって記述された貿易都市でした。現在に例えるなら、シンガポールや香港、UAEのドバイが大阪にあったと連想すれば良いでしょう。
当然、人が集まる堺にも遊郭が存在していました。

堺の遊郭地図

堺には「龍神・栄橋」と「乳守」という遊郭が存在しており、乳守が室町時代からの流れを汲み、一休宗純や徳川家康も遊んだと言われる超老舗に対し、龍神・栄橋は幕末からという新興遊郭。しかし鉄道の利により近代以降は後者が圧勝。前者の乳守は見る影もないほど衰退していきました。

堺をB29の集団が襲ったのは、昭和20年7月10日(9日深夜)。和歌山と堺をターゲットにした空爆で、この空襲によって堺市街地は丸焼けになりました。

空襲前と後の堺市内

空襲前の昭和17年(1942)と、その4年後の航空写真を見比べていただくと一目瞭然。赤と黄丸を基準に見比べると、私がいちいち説明するまでもないでしょう。

堺の遊郭の細かい詳細は、下のリンクをどうぞ。

貝塚遊郭

貝塚市は大阪南部にある街で、江戸時代は紀州街道の宿場町、近代以降は紡績工業の町として栄えました。
宿場町の宿命と、岸和田藩が岸和田の城下町の色街建設を許可しなかったこともあり、貝塚の遊郭の歴史は江戸時代にまでさかのぼることができます。

そんな貝塚の遊郭も、堺に同じく7月10日の空襲の被害を受けています。

貝塚遊郭空襲被災map

赤で塗られた部分が貝塚遊郭のエリアで、黒塗りされた場所が空襲によって焼失した部分です。 遊郭の貸座敷の半分が焼けています。

貝塚には紡績工場があり、空襲のターゲットにもなり得る標的ではありましたが、実際に焼夷弾が落ちた遊郭とは場所がかけ離れています。遊郭を狙ったのであれば、まさにストライクではあるのですが、そうではないはず。
可能性として考えられる理由は、二つあります。

1.灯火管制が効いて見当違いの場所に落としてしまった
:灯火管制は場所によっては効果があったらしく、佐賀市のように目標と全然違う場所に落とした例もあります。貝塚も、工場地帯に落とすはずが目測を誤って遊郭に落としてしまった。

2.爆弾が余って適当に落とした
:B29は、爆弾を積んだ量と目標の距離に応じて燃料が積まれます。その量は往復するのにギリギリの量で、「ちょっと空からKYOTO見物しますか」と寄り道すると燃料切れで墜落不可避。
復路分の燃料も、爆弾を全部落としたとみなして計算されているため、爆弾が余る→重くなる→燃費が悪くなる→燃料切れにより墜落の可能性大となります。
搭乗員A「爆弾余ってるやん!」
搭乗員B「どこかへ落とせ!」
と適当に落としたら、たまたま貝塚の遊郭を直撃しちゃった説。
このパターンは全国けっこうあり、

なんでこんなところに爆弾落としたの?

という所は、たいていこのパターンです。

貝塚市の資料によると、この空襲で12~3人の死者が出たものの、遊郭での死者はいなかったようです。偶然話を聞くことができた、遊郭の元貸座敷楼主のお嬢さん(っても話を聞いた時は80過ぎてましたが)によると、火の手が遊郭に移った時女子供・遊女を真っ先に逃がしたようで、「お女郎さんと一緒に南海電車沿いに南の方へ逃げた」とはっきりと述べていました。
そして、上の焼失地図も間違いないと断言されていました。よ~覚えてはりますな~と感心していたら、

だって、これ私(ら)の証言をもとに作ってるから(笑

偶然とは言え、思えばすごい人に出会ったもんだ。

貝塚の遊郭の詳細はこちらをどうぞ。

なお、枚方にあった遊郭、住吉区にあった『住吉新地』は空襲から免れています

飛田遊郭は焼けたのか?その実際は!

インターネットの大海で遊びながら「飛田 空襲」なんて気楽にググってみると、「飛田遊廓が先の戦争の空襲で焼けたか否か」についての情報が錯綜している感があります。焼けてない、いや、焼けたと。

よって、これを機会にさっぱり解決してみようと思います。

飛田新地は果たして空襲で焼けたのか?

1947飛田航空写真

昭和22年(1947)の航空写真を土台に、大阪市が所蔵している焼失区域の資料を照らし合わせると、こうなりました。
結論から言うと、飛田は3月14日の第一回大阪大空襲で大通りの南側の一部が一部焼失しております。飛田新地の名物になっている元妓楼、「鯛よし百番」は、写真のとおりギリギリセーフ、建物は健在でした。
上の写真は、残念ながら高高度から撮影している上に天気も曇りだったせいか質は良くないのですが、遊廓の大門通りの北側は全く焼けていないことくらいは確認できます。

昭和26年1951年飛田新地の百番の売買台帳菊池三郎

『百番』に関しては「焼けていない」という資料も見つけました。

また、昭和27年(1952)刊の永木徳三『風来坊』3にも、以下のように書かれています。

飛田は大門通りを境いに南半分は殆ど焼けてしまったが、北半分は完全に焼残り(以下略

引用:『風来坊』(永木徳三著)

私の分析を裏付けています。

飛田新地の詳細は下記をどうぞ。

おわりに

大阪の遊郭の戦災報告をまとめてみると、「木の摩天楼」でもあった遊郭は焼夷弾に対してはひとたまりもなかったことがわかります。
ほとんどの遊郭は赤線として戦後も続くことになりますが、飛田以外は事実上のNEW遊郭と言ってもいいでしょう。松島は場所まで移ってしまったことですし。

本記事で、皆さんのぼんやりとした「焼けた?焼けてない?」の疑問が晴れることを祈ります。

  1. 1945年10月大阪府警察局調べ
  2. ピースおおさか調べ
  3. 宗教法人相互福祉会出版部
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