二・二六事件秘話 渡辺錠太郎-一兵卒が大将になった話

渡辺錠太郎 歴史エッセイ
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渡辺錠太郎とは

渡辺は明治7年(1874)愛知県出身。商店主の長男として生まれ、19歳で渡辺家の養子となります。向学心があったものの、実家の経済的状況がそれを許されず、小学校も中退でした。

進学したい…でも経済的に不可能な場合、戦前の日本には受け皿がありました。

一つは「師範学校」
師範学校は衣食住学費完全無料の学校で、卒業後は一定期間教師に就くという条件付きですが、ハイレベルな教育を受けることができました。さらに上級の「高等師範学校」(もちろん学費は無料)を卒業すれば、世間の見る目は東大卒、いや教育界ではそれ以上となります。
師範学校の頂点と言われた東京高等師範学校は、戦後に東京教育大学という総合大学となり(学芸大学とは全く別物)、のちに発展解消され現在は筑波大学となっています。

もう一つの道が、軍隊に入ること

「ひとの嫌がる軍隊に、志願で入る馬鹿もいる」

こんなじゃれ歌がありますが、軍隊は徴兵制の他にも、、志願で入るという手もあります。軍隊なので月月火水木金金ですが、特殊技能を身につけ除隊後に実社会に活かす手もありました。今の自衛隊も、それ目当てで入る人はけっこう多い。

入学するだけで超エリートの陸軍士官学校も海軍兵学校も、進学したいけど家にカネがないから仕方なく…という人も多々いたのが現実でした。

渡辺は「看護卒」と呼ばれていた看護兵に志願しました。当然、虫けら以下からスタートです。
なぜ看護兵を志願したか。
当時は看護兵から上等看護長という階級に昇進すると、医師免許がもらえる制度がありました。途中で廃止になったと思いますが、これも向学心が強い人材の受け皿の一つであると思います。

渡辺は睡眠時間を惜しんで猛勉強していましたが、その姿を上官がしっかり見ていました。上官は士官学校への受験を勧め、合格します。
さらに勉強を重ねた渡辺は陸軍大学校に入学、「恩賜の軍刀組」という首席で卒業します。
こうなると、よほどの不祥事を起こさない限り出世街道は約束されたようなもの。小学校すら出ていない人間がついに大将にまで上り、「陸軍の三長官」と呼ばれるトップの一つ、教育総監に就任します。

渡辺は何故殺されたのか

昭和初期、陸軍は「皇道派」と、それに反する「統制派」(研究者によっては「幕僚派」「反皇道派」という人もおり、「統制派」なんてなかったと主張する人もいます)の対立がありましたが、渡辺はそれと一線を画し、無派閥の一匹狼を貫きました。

そんな一匹狼が、なぜ身内に撃たれたのか。
殺した側の論理は、
「あいつは危険思想の持ち主だから」
だそうですが、何が危険思想なのか。

 

渡辺は、軍人らしからぬリベラルで視野の広い思考でした。知識が偏りがちの軍隊では、これが彼の大きな武器でした。
その土台は、給料の半分が書籍代に消えていたという旺盛な読書量。

 

永田鉄山
「軍人らしからぬ軍人」と言えば、俗に言う「相沢事件」で皇道派将校に惨殺された、上の写真の永田鉄山(少将)が有名です。が、永田は社会科学系に対し、渡辺は人文科学系に精通し哲学や文学などを好んだといいます。

昭和初期に問題になっていた「天皇機関説」も、渡辺はその通りだと一定の理解を示しました。
が、天皇は神だと信じて疑わない陸軍軍人、特に若い連中にとっては、
「天皇?国家の一部じゃん」
と言ってのける軍人は、それだけで「君側の奸」として命を狙われる対象に。皇道派の中心人物荒木貞夫元大将は、彼が殺害された原因はこれだと戦後に回想しています。

青年将校たちは、若い上に軍隊内で純粋培養された上に信念が強すぎたあまり、視野が非常に狭くなっていました。視野が広いと視野が狭い人間には見えない何かが見えるといいますが、彼らにはそれが見えなかったのです。

「軍人にしてはあまりに常識的だったから殺された」
惨殺された理由を私なりに一言でまとめると、こうなります。

決起将校たちの怒りは、渡辺の殺され方にもあらわれています。自宅に土足で上がり込まれた上に機関銃で蜂の巣。それも幼い娘の目の前で。
部屋中に血と肉片が飛び散っていたと、眼の前で父を一塊の肉片にされた和子さんは生前述べていました。
ちなみに、殺害現場(自宅)は、ほんの10年前、2008年まで現存していました。歴史を変えた事件の現場でもあったので、保存の声も大きかったものの、最後は壊されることに。あまりに歴史を大切にしない姿勢に、ため息しか出ません。

 

アサヒグラフニニ六事件渡辺錠太郎葬儀

アサヒグラフニニ六事件渡辺和子

『アサヒグラフ』昭和11年臨時増刊『ニ・ニ六事件』に掲載されていた、渡辺大将の葬儀の様子です。当時9歳だった和子さんの姿も写っています。

歴史のIF-もしも渡辺が…

科学としての歴史では、
「もしあそこで殺されなかったら」
「戦争が起こっていなかったら」
などの「IF」は絶対禁物です。
しかし、人間は想像力の生き物。足かせを外し広い想像の世界に遊ぶことは至って良し。
「もし渡辺大将が殺されていなかったら」

二二六事件以降も生きていたと想像してみましょう。

 

陸軍が、特に二・二六事件以降暴走したのは、佐官クラスの幕僚が将軍たちをロボットにしていた下剋上にあります。

それをあらわす典型的なエピソードがあります。
昭和12年の国会議事堂で、陸軍省の武藤章中佐1が記者たちに「陸軍の方針」を書いたビラを配っていました。

 

寺内寿一
そこに、当時の陸軍大臣寺内寿一(大将)が通りかかりました。
寺内はビラを見て
「なにこれ?」
と頭の上が「??」になっているところに、武藤は悪びれることなく言いました。

「ああ、これ大臣にはまだ言ってなかったですな」

一般企業に例えたら、本社の総務課長が勝手に経営方針を作り、代表取締役社長の決裁も同席もなしでマスコミに発表しているようなもの。とんでもない越権行為だとわかるでしょう。こんなことが平然と行われ、上層部も

「若いのは勉強してるねーw」

と黙認していたのが昭和初期の陸軍だったのです。

しかし、渡辺の視野と見識の広さでは下剋上は不可能。
自分らのやりたい放題に軍や国を動かし、その責任は上に取らせようとする幕僚の思惑通りには、絶対に動いてくれません。

さらに、渡辺は軍政・軍令・現場(部隊勤務)・海外勤務と、非常にバランスが取れた軍歴であるオールマイティ。そのバランスの上で考えたら、その後の支那事変や対米戦争は愚の骨頂と感じるのは言うまでもない。

「軍隊は強くなければならない。でも戦争だけはしてはいけない」
渡辺は家族に何度も言っていたそうです。

□参考記事

経歴を見ると、1917年から3年間、武官として第一次大戦中のオランダに赴任しています。「戦争だけはするな」は、敗戦国ドイツや戦場を現場で見た実感としての感想のはずです。当然、日独伊三国同盟などは反対。生命が狙われるけれど、国を滅ぼす行為は生命を賭けて止めるでしょう。

まあ、殺される時期が早いか遅いかかもしれませんが…。

 

私が二・二六事件の概要を知った小学5年生の頃、農民の貧窮を憂いた青年将校は素敵だと思っていました。
しかし、長じて渡辺や海軍など、違うフィルタを通して二・二六事件を見ると、事件が全く違うスクリーンで見えてくるのです。私の評価は一周回ってさらに180度回転したほどの衝撃でした。
個人的には、日本陸軍、いや大日本帝国にとって、二二六事件で亡くなるには惜しすぎる人財でした。

改めて、二・二六事件から84年。事件の生き証人だった娘の和子さんも2016年に亡くなり、事件もすでに遠くなってしまいました。仮に事件当日に生まれたとしても84歳ですから。

それだけに、やっと昭和を客観的に考察することができる世の中になった今、陸軍にはこういう人もいたことを認識する時期でもあると思います。

  1. のち中将。支那事変拡大の責任で戦後東京裁判で絞首刑。
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